恐怖政治の下では困難な「ヒエラルキー内の勇気」 | 世の中とかなんやかんやに対する感想

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できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

映画の中でのアイヒマン裁判におけるアイヒマンの証言は興味深いところがある。


生き延びたユダヤ人が証言する。

一人目は21歳の時、両親と7人の兄弟の家族がいたが自分だけが生き残ったと。一番下の弟はまだ10歳にもなっていない。

二人目は1200人の輸送において助かったのは200人くらいだと言いながら涙をこらえて証言する。

三人目はアウシュビッツで2年間飢えと戦ったと証言したが途中で証言をやめ気を失って倒れる。


その証言をアイヒマンは苦虫を噛み潰したような表情で退屈そうに聞いている。


さてアイヒマンはその責任を追及されると次のように言う。


「将校は忠誠を誓います。もし誓いを破る者はクズと見なされます。私も同意見です。しかし宣誓もヒトラーがなくなると終わります。」


自己の責任を認めよとしないアイヒマンに質問がなされる。


「あなたは尋問の時に『父親が裏切り者だとヒムラーから聞いたら、父を撃ち殺しただろう』といったそうだが?」


アイヒマンは立ち上がって毅然として言う。


「父親が裏切りの事実が証明されたなら遂行したでしょう。」


「葛藤はありましたか。義務と良心の間で迷ったことは?」


「両極にありました。意識的両極です。義務感と良心の間を行ったり来たりで、意識的両極にありました。」


「それで良心を捨てたと?」


「そう言えます。」


「勇気があれば違ったのでは?」


「その勇気がヒエラルキー内にあれば違ったでしょう。」


「では虐殺は避けられない運命ではなく、人間の行動がまねいたものだと?」


「そのとおりです。」


「皆、思いました。『上に逆らったって状況は変わらない。』『抵抗したところでどうせ成功しない。』皆そういう世界観で教育されていた。叩きこまれていたんです。」


さてJWの場合、バプテスマを受ける際の二つの質問の一つとして「組織が神の救いの唯一の経路であることを信じているかどうか」と尋ねられる。これはいわば組織に対する忠誠を誓わせるようなものだ 事実上統治体への献身がひそかに誓わされる。この質問は私がバプテスマを受けた時にはなかった。)そしてその忠誠を破る者「背教者」=「クズ」と見なされる。 「背教者は精神がおかしい。」という統治体成員の発言は統治体が自分たちに従わないものをクズと見なすようにというトップの命令である。


JW内のヒエラルキー内に勇気があるだろうか。「排斥」「公の戒め」「特権削除」「完全忌避」などの処分がある中、善良でおとなしい故におびえる羊の群れで果たしてどれだけ勇気を示せるだろう。勇気を出しても結局は握りつぶされ葬り去られるのである。個人の良心は捨てざるを得ない。ヒエラルキー内で個人の勇気をことごとく摘み取り、「何を言っても無駄だ。」という力による支配をしている独裁者が統治体なのである。支部やアンテナである巡回、そしてその言いなりになる長老たちはそういう指示を忠実に遂行することしか頭にない。


家族間でも完全忌避の実行は、「父親でも撃ち殺す。」と述べたのと同じだ。父でも母でも兄弟でもわが子でもその実行を促す。いやむしろJWのほうがそれが「愛ある行為だ。」と教えられ、「組織を清める」と言われるが、それを実行しないと自分も同じ目に合うという恐怖こそがそれを実行させるのだ。恐怖政治なのだ。 しかし神のご意志だと説得され、その残虐な行為をなんとも思わないように手が打たれる。良心を捨てざるを得ない人が多い。そのような残虐行為をクリスチャンとしての良心だとすり替えられる。


だから排斥者がその苦悩をいくら述べても、ちょうどユダヤ人被害者の受けた苦しみを苦々しく聞いていたアイヒマンのように、退屈そうにそれらの訴えを聞いているだけのモンスターが出来上がるのだ。ブログなどで排斥者がどれほどその苦しさを述べても、きっとアイヒマンのように苦虫を噛み潰すような思いで氷の心で読んでいることだろう。長老は休み場を得る岩の影などではなく、針の筵になることは少なくない。


愛するわが子を排斥者というだけで何十年も忌避するなど狂気の沙汰以外の何物でもない。そういう残虐非道な指示に従う年月はキリストの愛を排斥者に感じさせない年月と同じだ。排斥者にエホバの愛など感じさせることはない。むしろエホバに対する恨みを培わせるものだ。ぜひそのことに気付いてほしいと、あるいは家族に気付かせてほしいと全霊の思いを込めて願う。