虚構の中で築かれた価値観 | 世の中とかなんやかんやに対する感想

世の中とかなんやかんやに対する感想

できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

ここしばらくずっと書いている目的は一つである。組織の中で傷ついた人たちや、非信者が組織内にいる人をどうやって救うことができるか、どう振り向かせることができるかという視点で書いている。組織内にいる親族や友人に気づかせるためにはどうすればよいのかに関しては、それぞれはそれぞれの視点で書けばいい。答えは一つではない。しかし組織内にいる人が最初から拒絶するような「雰囲気(JW語では霊)」を反映させてはならないというのが私のとっている立場である。


ヒトコトで全否定をするなと言ってもそれぞれの経験や、立場でイメージは変わるとは思う。


さてかつて私は「組織の中でも、人として大切な特質を学んだのでそれは評価すべきではないか」というと、そんなことを言われても虚構の中で培われた価値観は虚無であるし、それは捨てなければならないというような反論があった。


当時は正直その感覚は十分理解できなかった。


しかしそれは、たとえばこういうことかもしれない。慰安婦問題が取りざたされたときに、慰安婦が受けた報酬は時に軍人よりも多かった。そういうぜいたくな暮らしもできたのに、なぜそのことに感謝しないのか。華美な宝飾品を身にまとい、美食に興じていたのではないか。その中で得たものは普通の人よりも良いものがあったのではないか。


しかしながら、それは人間としての尊厳を損なわれ、屈辱の中で手に入れたものである。そのような心を破壊されたうえで得た「富」などに価値を見いだすことはできない。たとえそれが高価なものであろうとも、そのような屈辱を味わわず、穏やかでつつましく生活できた方がはるかに幸福だった。身にまとった高価なものは自分にとっては屈辱の歴史の象徴であり、できれば見たくない。


もし高価な宝飾品を手に入れるとするならば、人に語ることを躊躇するようなものではない職に就き、地道に働いて手に入れたい。高価なものを手に入れるとしても、それに伴う性病の罹患などという危険と隣り合わせのようなものであるなら、真の安心感で手に入れた富ではない。それは虚栄にしか過ぎない。


そう思っても不思議ではない。


虚構に基づき、「他人に愛を示さないとハルマゲドンで自分が滅びる。」という脅迫じみた教えのもとで培われた「愛」がはたして本物か似非ものか。


できれば、いったん離れて、手にしていた「宝飾品」はすべて捨て去り、何にも制約されない中で、自分の心を吟味しなければならない。それこそ根本的に、基礎から、基本から、初めから、最初から、一から、自分が果たして人を愛せる人間なのかどうか、高い道徳基準なるものに価値を見いだすことのできる人間なのかどうか、できればそうはありたいと思っても、そもそもその気持ち自体も作られた自分なのか、それとも生来の自分なのか、そういったところから始めなければならない。


「愛を以って人を許せ」と教わってきたが、本当に自分はそれができる人間なのかどうか、許さなかったら何が起きるのか、その方が気が楽になるとしたら、そのようなことはできっこないではないか。「愛を以って人を許す」ことが幸福ではなく苦痛であるならそのような言葉は意味をなさないし、もし経験の中でその言葉が正しいと思うなら、それは受け入れることができる。


そういう経験もなしに頭ごなしに理想論を語られ、その背後に鞭が見えるなら、どのような聖書の名言金言でも心は貝になる。それほど隔絶された社会で生きてきた。それほどまでに人生経験を、し損なってきた。たとえ聖書の言葉に逆らって生きたとしても、そしてそれ故に被害を被ったとしても、それは自己責任で甘んじて受け入れる覚悟はできている。でも自分が自分という存在を意識しながら生きているんだという実感はあるだろう。自分で生きているという手ごたえ。生まれてきた以上、それが欲しい。今まで決して得ることができなかったものが欲しい。


今一度本当に他の人の福祉を考えるような生き方をするためには、JW時代の教えを全否定し、それで培った「愛」すらも捨てなければならない。その「愛」というのは、鞭で培われた「愛」である。強制的に示さなければならなかった「愛」である。ハルマゲドンで滅ぼされないために表面的に示さなければならない「愛」である。それのどこに価値などあり得ようか。それは屈辱の中で手にした【宝飾品】でしかない。


生きていくうえでの趣味嗜好、進学や進路、就職、芸術やスポーツなど、生活の微細なところに至るまで組織の考えで制約を課した結果、聖書そのものへの猛烈な拒否反応を生み出してしまったのがWT組織であることは全く否めない。


そこまで経験させなかった。そこまで組織という檻の中に閉じ込めた。自分の経験で培い、自分で考え、自分で選択する余地すら与えなかった。


そして2世の場合、親が横にいて、絶えず親の表情や意向を見ながら、その期待にそぐわないように意識した。1世はそのような親の意向を気にしながら決定をしたのか。

否である。

「愛」を示すのに親の表情をびくびくしながら眺めたか。

否である。

まだバプテスマを受けていない幼少期に、ケンカしたいのに我慢しながら「愛をもって許す」と耐えたことがあるのか。

否である。


「愛」を示すことにともなう喜びよりも、「愛」を示さないことにともなう恐怖が優先するような「愛」だったかもしれない。


そのような「愛」は捨てなければならない。しかしそれは同時に改めて本当の「愛」を求める生き方を模索するように突きつけられている気がする。本物の「宝石」を得る旅のように。


次に放映され始めた「私を離さないで」のドラマを見て感じたことを書くつもりだが、重い・・・