組織がネット利用を容認した以上、現役JWがブログを見始めるは必然だ。
そのような傾向を歓迎するのはわかるが、果たして今現在ブログをしている人たちが期待している組織崩壊が速やかに訪れるかというと私は意見を異にする。
それはこれまでブログをしていた人たちと、これから見ている大多数のJWとは少し質が異なると思うからだ。
今までブログをしていた人たちの中で、組織に激しい恨みを持つ人には、もはや信仰を捨てた人、組織の道徳基準を捨てた人、組織やその中にいる人間関係で躓いた人たちがその怒りや憎しみを共有し、そのはけ口として利用している場合がある。
いわゆる組織の中にいる人がそれらの言葉に接した場合どのように感じるだろうか。
組織の求める道徳基準に沿おうとするのは、おそらく人間である以上ほとんどの人にとって挑戦となっている。また極力争いを避けようとし、自制心を働かせながら生活をしている。組織にいる時は、そういう道から反れた人に対しては、残念ながら「サタンの影響に負けた」とみる。離れた人がどれほどその後心を痛める人生を過ごしているかに考えを及ぼさない。離れた人にとって見ればそれがなお一層憎しみを増す効果を生み出すことなど考えもしない。
そのような人たちが、今組織の方法に非常に疑問を持ち始めている。特に長老の権威服従は眼に見えて強くなっている。そういう傾向を臍(ほぞ)を噛む思いで見ていながら毎日を過ごしている人たちが、ブログに目を通しだした時に果たしてどういう印象を受けるだろうか。
私はある方へのコメント返信で次のように書いた。
組織批判が内部の人に共感を持たれるようにするために、彼らの推論の仕方に対しては同調すべき部分は同調する必要があると思います。これはまた記事にするつもりですが、改めてレイモンドフランズの良心の危機を読み直していますが、なぜ彼の著作に対して私たちは素直に読むことができるのか。それは彼自身がJWとしての良心を保っているからだと思います。一方的な全否定は決して共感を得るとは思えないんですね。
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私が今考えているのは、覚醒「後」のことなんです。世の中には知らないほうが幸福ということもありますし、そういう見方の人もいますよね。配偶者の不貞行為は知らないほうが幸福だったというのはその例です。いつでも真実を知ることが幸福にはつながらない場合もあります。配偶者の不貞行為を知って、その配偶者との今までの生活を全否定するか、やり直すために見方を変えるか、様々な個々の事情があるのでそれを第三者が選択を勧めることはできないですね。
真実を知った後は以前と同じ生活はできないにせよ、常にその人自身の幸福を考え温和で穏やかな暮らしができるよう支えになることが大事だと思います。
配偶者に対する憎しみを周囲が煽り離婚にもっていくことが必ずしも正しい選択であるとは思いませんね。
そう言う考えがあってもいいなと思います。
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(現役)さんたちに読んでいただいても「ああこのブログなら信者の気持ちを分かってくれる。」ということを書いていきたいと思います。
そんな理由もあるものですから、平衡の欠けた考えや酷いと思われる記事に対して批判しているんです。それで物議を醸し出していますが、私は組織にいる人たちにあてて記事を書いて行こうと思っています。
組織に恨みを持つ人たちが、その恨みの感情を共振しあい増幅させるのを見ると、その主張内容がどうあれ、その「実」を現役は見る。それを組織の宗教指導者は利用するのは間違いない。
つまり指導者層は組織がベストでもなくベターだと思うよう仕向けるのである。したがって、「背教者の精神がおかしい。」という組織の主張を正当化するようなものであってはならない。
実際「ではこの組織を出れば他にどこがある?」という人もいるのはそういう心理があるからだ。しかしそうであってもこれからは良識あるJWが組織を離れることを考えていくだろう。一方で組織内でのコミュニティが捨てきれない人は組織にとどまざるを得ないとしても、その時々の決定を賢明に行なってもらいたいと切に願う。「断絶」に関する見解を書いているのはそれが理由である。すでにその選択を行なった方に対する咎めるものではない。
組織内のコミュニティで幸福を感じる人がいるのなら、その幸福を奪い去るようなまねはしてはいけないと思う。人の幸福など他の誰かが決めるものではない。
余りにも激しい組織非難とあいまって出される「組織から出てください。」とか「特権なんか意味ないですよ。」という言葉が、実は組織の人と交われず、特権を果たせない現状故に、ほんとは組織に交っている人や、特権を果たしている人たちに対する妬みのようなものを感じる時があるのも正直なところだ。
幼い時から親密な交わりをしてきた2世にはわからないだろうが、あの組織はある意味特別である。普通に暮らしていたらあのようなコミュニティはそうは存在しない。広範囲にわたる人間関係を失うことへの寂しさはあって当然だ。それを奪われた感は否めないだろう。
特権にしてもそれに伴う扱いが心地よいものでもある。演壇で多くの人を相手に話をし、お世辞も含めて集会後に感謝をされたり、訪問講演での食事招待なども開拓者なら普段は食べることのない料理を味わうこともある。よくできたシステムだ。したがってそのような気持ちになることは全面的に理解しているし、そのような気持ちになることをとがめるつもりも全くない。
あの王国会館という狭い空間で仮に講演できなくても、たとえばブログで「講演」をすればよいと思う。その中で聖書からの慰めや、正しいモノの見方、人の心を打つことを書けばよいのではないかと思う。あの組織にいて、その人生の一時期に誠実な心で神を崇拝したことのある人なら本当はそういう話を聴きたいのではないかと思う。
私は組織内でマイコンを受けている人たちは大変気の毒に思っているし、決して軽蔑もしていないし侮辱するつもりもない。それがある人たちにとっては私が組織擁護の立場をとっているように見えるかもしれない。「組織の回し者」などという妄想を生むのだろう。でもやはり私は組織にいる誠実な個々人はいとおしく思う。
それでも現役の心を理解しながら、その立場に立ってものを見ることができればという視点でこれからも書く。マイコンされている状態も様々なのである。コンティ裁判を知って、すぐに覚醒する人もいるしそうでない人もいる。そうでない人は愚かなのだろうか。そういう人が組織から離れないとイライラするだろうか。しかし人が様々だということはこういう面でも表れるはずだ。
でも考えてはいるはずだ。信仰心を持ちながらその持って行き場に迷っている人たちは「とりあえずビール…」ではなく「とりあえず組織」なのである。その思いを理解しなければならないと思う。