前にも書きましたが、組織から離れて頼りなく思える理由の一つには
「愛を示す機会」が無くなることがあるのではないかと思えます。
それまでは「野外奉仕」に参加することがJWにとっては「愛を示す機会」でした。
集会で他の人を歓迎するのを「ラブシャワー」とか言って軽蔑する向きもあります。いや、私自身もそういう表現を使ったかもしれません。
しかしそれを頭ごなしに軽蔑する風潮は他の人の努力を無視するものだと思います。
しかし、やはり新しい人を歓迎したり、割り当てを果たした人に感謝を表すことは愛を示す機会でした。
私としては、偽りの歓迎や感謝を表したくなかったのですが、やはり感謝すべき内容であるなら感謝しました。
ただし感謝する内容を「選んで」いました。
何度も集会に来られて、冷やかしで集会に来てるのではないなと思った人には近づきました。
義務でそうする人ももちろんいたかもしれませんが、やはり関心を表すことは大事なことだと思います。
ですから歓迎したり感謝したりする他の人の動機を疑い、バカにするというのは実は自分の動機が、そういうものだったということを告白していると思いますね。
食事招待にしても「仲間の兄弟」に対する愛を示す機会でした。
組織から離れるとそういうことができなくなるのが、何か利己的に生きているような気がしてならないという人もいるかもしれません。
だからある人はそのことで良心が痛むので、もう考えたくないという人もいるかもしれません。
つまり、考えると神からもう是認を得られないと自分を責めるのです。
だからもう信仰までも捨て去るのです。
信仰を持っている限り、野外奉仕をしなければならない、集会に行かなければならないという考えとつながるからですね。
信仰を持つことが苦しくなってくる人もいるかもしれません。
でも、「愛を示す機会」というのはWT組織流じゃなくてもいくらでもできると思いますね。
私はそれまでほとんど絶縁状態だった親戚に積極的に近づいています。年老いた叔父や叔母に対して旅行の送迎をしたりするようになりました。
職場にいる若い人には、夢や目的や今どんなことで悩んでいるかなどを聞くように時間をとっています。
親孝行をすることや以前にもまして配偶者や子供など家族を愛する心を持てるようになることも愛を示す機会だと思います。
職場の清掃に来られている方々やその他公共の場所で清掃をされる方々に感謝を表すこと。
すべてを「エホバに対するように心を込めて行う」ことができると思います。
「善良さ」とは必要以上のことをするようにと教わりました。
隣人が「お醤油を分けてくださいますか。」と言われると、「お味噌はありますか、お砂糖はありますか。」と尋ねるという気持ちが善良さだと大会で話した地域監督がいます。心を打つ話をする兄弟です。組織で学んだそういう教えを捨てることはないです。
最近、スーパーで良い接客をしてくださるスタッフの方を見つけると、感謝の気持ちを投書することにしています。それは掲示されます。どうも投書というと苦情の類が多く、褒め言葉など皆無です。しかし続けていくと、見知らぬ他の人も同じようにほめ言葉を書くようになりました。
もしそれがその人が幸福を感じてくれるものであるのなら、嬉しく思います。
その方々が家に帰って「今日は褒められた。」とご家族にウキウキ報告されるのならば、ご家族も幸福になれるはずでしょうし。
ブログを見ていると働いている方も多いですね。その方々に直接世俗の仕事で感謝を表現することはできないのですが、その方々に対する気持ちを重ねて投書します。
マニュアル通りに接客するお店のスタッフにも、「丁寧に接してくれて気持ちがいいですよ」と伝えると男性でも相好(そうごう)が崩れます。真っ赤になる店員さんもいてそれが可愛らしいときがあります。
「愛を示す機会」はいつでもあるはずです。
むしろ「野外奉仕」さえしていれば自分は「愛を示している」と安易に考えるのは自己満足なのかもしれません。
そのように考えていくと、今自分が持ちたい思いは、自分と関わる人たちの救いを願うことではないかなと思います。
御嶽山の噴火で亡くなられた方々に対しては気の毒でなりません。紅葉の綺麗な景色を楽しみながら、お弁当を食べていた矢先の出来事でした。人生を楽しみたいと思っている人が一生懸命山登りまでしたのにと思うとやり切れないのです。
そしてできる限り多くの方々を見つけたいと思い連日過酷な状況の中で捜索にあたる人たちの願いもまた胸を締め付けます。
勿論亡くなられた方々の中には自分個人と性格の合わない人もいるでしょうが、だからと言って訪れた不幸は哀しく思います。
そうであるならばたとえブログなんかで私と合わない人や批判的な人がいたとしてもやはりその方々の上に不幸が望んでほしくないという思いは出てきます。
確かに今は組織を恨んでいたとしても、過去においてある日ある時同じ時間にそれぞれの王国会館で真剣に集会に出席し、賛美の歌を歌った時間が重なるのであるならば、その方々の福祉を願います。
たとえ組織から離れた人でももし組織にとどまっているならばどこかの王国会館で出会っていたかもしれない方々の幸福を望みます。
その方々の心の平安を望みます。もちろん組織にとどまる方々の心の平安も望みます。
みんな人生という山登りをし幸福になりたいと願って生きているからですね。
そういう心を持つことが組織にいて、神や聖書について教わったことではないかと思います。
私に組織を全否定するよう要求するのは、普段は善人ぶっても、ことあらば学んだことなんかかなぐり捨てて、いい逆らう奴は徹底的に叩け、相手をさらし者にしろ、あらゆる罵倒の言葉を浴びせろ、憎いやつの不幸を望め、相手のみならず、仲間を招集して、相手の擁護者も攻撃しろ、別HNや捨てHNもたくさん作って集中的に叩け、相手がリアルでどれほど災難を蒙ったとしてもかまうな、相手や相手の家族に不幸が訪れようと気にするな、相手の素性を調べ上げ周囲に知らせろ、排斥に追い込んで相手の家族をバラバラにしろ、交友関係をもつぶせ、徹底的に相手を辱めろ、戦闘能力をフルに発揮しろ、攻撃精神を全面的に出せ、と言っているようなものです。
たぶんこれからも自分の思いや考えは書きます。その中にはある人にとって気にくわないこともあると思います。しかしそれは不幸が訪れてほしいという願いではないのです。今までもそのつもりでした。噴火の兆候が見られるならば注意喚起するのと同じです。
組織を離れたほうが自由ではありますがより注意深くアンテナを張り巡らさなければなければならないと思います。