「共依存」と「自己犠牲」 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

「共依存」とはWikiによると・・・


共依存(きょういそん・きょういぞん)とは、自分と特定の相手がその関係性に過剰に依存する、その人間関係に囚われている状態を指す。一般的に「共依存」と言うと、病的な人間関係などを指すことが多い。共依存者は自己愛自尊心が低いため、相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出し、共依存関係を形成し続けることが多い言われる。


とありますが、これは依存される側が陥りがちな心理を指します。具体例としては、だらしない夫から離れられない妻が「この人は私がいないとだめになる。」と考えるような状態です。この共依存状態は依存されている側の人がしばしば他者がその関係に入ってくることを許さないのです。


見かけは片務的で一方的に見えるのですが、実はその片務性の中に互いを必要とする心理が働いており、それは互助精神とは異なるものです。


単なる、尊敬とか、愛情とか、思慕とかとは異なり、溺愛とか盲目的愛情という方面の問題です。


テレビドラマ「相棒」の第2シーズン「蜘蛛女の恋」ではそういう母娘の関係が描かれていました。奥手で世間を知らない娘を溺愛する母親は常に自分に頼る娘が愛しくてならず、その友人や結婚相手と思しき人に敵意や殺意を抱くようになります。


結局、娘の幸せを願うよりも、娘が自分から離れていくのが寂しくてならずいつまでも手元に置いておこうとするわけですね。共依存関係では頼られている方がある種「見返りを期待する愛」を示すのです。しかしこの場合の愛は「自己犠牲」をしているようで実はそうではないのでしょう。


世間でよく見られる嫁姑の問題も、この共依存関係から脱し切れていない姑が抱く感情から生じるのであり、そう考えるとある意味ごくふつうにみられるものと言ってよいと思います。つまり誰にでも起こりうる問題です。息子との共依存関係にある母親が陥る罠です。


さてWT組織においては実はこの共依存関係が育まれる要因がたくさんあります。


というのも、その活動の多くは「自己犠牲」によるものであるからです。

また信仰上の問題を扱うことが多いので、必然的に心の問題を扱わざるを得なくなり、当人はもとより相手の家族や子供に対する干渉もエスカレートしていくことが多いですね。


(それは親密で濃厚な人間関係が生まれる素因になり、その延長線上に児童性的虐待が生じると思います。児童性的虐待が親しい人からなされるというのが一般的風潮ですが、WTの場合それが生じやすくなる元々の土壌があるのです。)


「援助」という名のもとに数多くの援助者と被援助者という構図が存在します。

長老⇔成員、

研究司会者⇔研究生、

「奉仕の友の取り決め(今でもあるのかな)」

奉仕の援助者⇔被援助者、

親⇔子

夫⇔妻

などはすべてそういう構図です。


もちろんこれらはその趣旨と意義から言って悪いものではありません。それが本来の目的通りのものであるならば心地良い人間関係が生まれます。


ですが、構図の左辺の側にいる人が少しでも油断すると容易に共依存の関係に入ります。


この左辺の側にいる人が陥りがちな危険は、自分が依存されていることが自分の存在意義を持たせるのですから、常に支配的になろうとすることです。相手をコントロールしようとするわけです。さらに元々右辺の側にいる人は、左辺の側にいる人に頼ろうとしているのでコントロールされやすいわけですが、少しでも逆らいでもするならば左辺の側にいる人の激しい嫉妬や敵意に直面するので独立できないわけですね。しかしこの関係は一瞬にして変わる時があります。


つまり右辺にいる人がだんだん要領を覚え、「私がいるからあんたは生きがいを得られるのよ。」と考えて、左辺の側にいる人を、自分のわがままを聞いてくれる人とみなすようになります。DV夫なんかその好例かもしれません。


どちらが操りどちらが操られているかがわからなくなるのです。共依存の深化ですね。こうなると両者の関係は一つ間違うと憎しみの感情がいつ爆発するかわからない状態にまでなるでしょう。かなり深刻だと思います。互いに相手をコントロールしようとするからです。


長老は会衆内の成員が自分を頼ってくれることで自分の会衆内での存在価値を認識するようになってくると、もしそれまで自分を頼ってくれる人が別の人を頼るようになると憤慨します。また自分がその特権を失うと必要以上に狼狽します。自分の存在価値を確認できなくなるからです。会衆の成員と共依存になっていると思います。また未熟な長老を私たちが支えているのだと思うベテラン姉妹たちもいますが、それは「母性本能を持つ人⇔アダルトチャイルド」という構図が成立するかもしれません。表面的立場とは異なり、自分が「援助者」に回ろうとする心理が働くのです。その時もはや神は思考の対象外に置かれます。


というのも、自分の価値は「相手からの依存によって支えられている」と思っているので、その立場を失うことは周囲の人からの依存を失うと同義であると短絡的に考えるのも、そもそも自分の価値が「他者からの依存」という相対的なもので決定されると思い、神の御前での絶対的価値という視点で考えないからです。


私たちはすべてキリストによって、罪人の状態から買い戻されたがゆえに御前にあって価値ある存在であるという認識をすべての特権的立場にある人たちは考えなければならないのです。


この点で、平生からキリストの犠牲に対する感謝の気持ちを持つことが重要であると思います。


また研究司会者は、研究生がいつまでも研究生でいてほしいと思うかもしれません。自分以外の影響が他の人から及ぶのを嫌がります。研究生がバプテスマを受けた後も研究生にかかわります。そしてその家族にも影響を与え続けたいと思います。


自分の子供を研究生の子供の研究司会をさせるようになり、親子で研究生に対し共依存関係になります。それを援助という大義名分で行なうのです。


自分の弟子を作らないというのはそういう共依存に対する警戒心を持つ点で重要な考えです。


「自分の弟子を作らない。」


依存している側にも大いに責任があります。私は何度も指摘していますが、JWの場合の大きな問題点は、自分の思考を中断し、組織に合わせるように指導を受けることですが、それを受け入れること自体が他者に決定を丸投げしているのですからね。むしろ自分の考えに頼らない、という言葉を曲解し、それが正しい見方だと思い、「自分で考えない自分」を誇っているのです。自分で自分をあえて歩けなくさせているのでしょう。これが非常にいびつな精神状態を受けます。いうなれば自力歩行できず、常に何かにつかまりながらでないと前に進めない自分を異常だとは感じず、それを誇っているのですからね。


「組織の言うことが間違っていると思っても従え」というのはこういった共依存関係を促進するため以外の何物でもないのです。統治体は数百万のJWに頼られていることで、自分たちの価値を確認しているのです。統治体が共依存関係に陥っているのです。そこに神やキリストの存在は考慮されていません。統治体に敬意を払うことが大切だという人はこの事実を看過しすぎです。


WT組織にいると、ここに神とかサタンが絡んでくるので余計に複雑になるわけです。


しかしながら、払っている「自己犠牲」が真に相手のことを気遣うのであれば、相手との共依存関係に陥らなくて済みます。それは依存されている側が、必要以上に相手に干渉しないことを意味しています。割り切りが重要なのです。


たとえば医者と患者の例は患者は医者に頼りそれこそ身をゆだねます。しかし病気が癒えると、患者は医者を必要とはしません。医者が患者と共依存関係にあるとすれば、それこそ治る病気を治さないであれこれこれ悪いところを作り出すようなものです。もはや医者として失格です。


(この点セカンドオピニオンを勧める今の医学界は正しい方向へ進んでいると言えると思います。システムとして共依存関係を壊しているからです。それで腹を立てる医者は徐々に居場所を失うでしょう。)


教師もそうです。「青は藍より出でて藍よりも青し。」ということわざがあるように、生徒の能力は時に教師よりも優れる場合も数多くあります。そんな時に教師が生徒の能力を妬み、その能力を開花させないようにするならば、教師失格です。


WTの場合、援助の取り決めが数多くありますが、それに携わる人たちが精神的に未熟である場合が多く、援助者が被援助者に対して余計な干渉をすることがあまりにも多いのです。


共依存関係は害をもたらすものです。妬み、嫉み、嫉妬、怒り、憎しみを生み出します。「私はこれだけあなたのためにしてあげているのに、あなたはいったいなんなの!」という感情が出てきます。また一方で相手の欠点を大目に見たり、それを指摘できない状態もやはり自分が「共依存関係」に入っていることを認めなければなりません。


前述のように、宗教をしているがゆえに必然的に心の問題が生じるのはやむを得ないことであり、どうしても悩みを打ち明ける側とその相談を受ける側が出てきます。だとしても、やはりその人が問題を克服する強さを身に着けた時には、その成長を喜び、その人が独自に歩むのを願うことが大切だと思いますね。その人の心が癒えたなら、もうそれ以上干渉しないことが大切なのです。


確かに心の問題はそれこそ患者が医者に頼るように、生死にかかわるような心の問題を打ち明けます。打ち明けられた側はその時はできる限り知恵を絞ってその問題を共に考えます。クリスチャンの場合はそれは聖書的なものでなければなりません。そして相手がその問題を克服すれば、いつまでも医者が患者に干渉しないのと同様に、一線を引くべきでしょう。でないと、「あの長老は○○兄弟or姉妹の味方だから」という偏った見方を周囲が持つようになるからです。問題を抱えればその点だけに関してまた近づけばいいのです。病気が治ったら医者には通いませんが、また病気になれば医者にかかるのと同じです。


「牧する立場=指導的役割を果たす人たち」が必要な認識です。勿論そういう正しい認識を持っている人も当然ながら数多くいます。


これは決してドライな考え方ではなく、あるべき姿なんですね。それこそ真の「自己犠牲」ではなかろうかと思いますね。


テサロニケ第一5:11で「互いに励まし、互いに築き上げるように」とありますが、これは一方的で片務的な愛ではなく、双務的責務を強調し、共依存を防ぐためにものであるという視点でとらえると興味深いです。パウロのは「手ずから働く」点で物質面で同じ信仰の仲間のだれにも負担をかけないようにしました。この点でも今日の「旅行する監督」たちの模範となっているパウロは模範的であり、逆に言うとWT組織の中の「旅行する監督」の取り決めが1世紀に倣っているようで倣っていないのです。巡回監督はまさに会衆の成員と共依存の関係になっているのです。


共依存の精神態度がWT組織で身に付くとたとえ組織から離れても引きずるのです。常に自分は頼られていないと気が済まない、自分が中心でいなければ気が済まないと思います。一方、組織でいつも誰かに頼っていた、いや組織そのものに頼っていた人が、組織が頼れるに値しないものであることがわかると愕然とし、結局組織に頼っていたように、頼れる誰かを探し続けるのです。誤解を恐れずに言うならば、常にしがみつくことができる相手を探し回るのです。そして相手が自分の代わりに何かをしてくれるだろうとコントロールしようとします。


その時こそ、フレネミーが生まれると私は思います。


*「共依存」に関しては、検索すると非常に細かな説明をしているサイトが数多くあり、自己分析をする際に大いに役立つと思います。信仰という要素があるので、そっくりそのままではないにせよ、思いの調整をする面でかなり参考になると思いますね。