self-esteem(自尊心、自己評価) | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

自尊心が「自己評価」という概念を持つとするならば、

他人の眼を気にしないという点で非常に有用な視点だと思います。


なるほど私たち人間がsocial(社会的、社交的)な存在である以上、

他の人との良好な関係は否定するべきものではないと思います。


とはいえ常に「人に好かれる」ことばかりを気にしていてはたして自尊心が培われるかというとそうではないと断言します。


自尊心のない2世にとって振り返ればわかることです。

そもそも何が自尊心を奪い去ったのか。

それは常に「周囲の目」つまり「周囲の評価」を気にしていた故の決定ではなかったかということですね。

信仰心があるのかないのかわからないままにたとえば親に好かれるために

バプテスマを受けるのもその一つかもしれません。

周囲の評価をいつも気にかけ、周囲に好かれ、周囲に受け入れられるために注解をし、開拓奉仕をしたのかもしれません。


これは親自身も大いに責任があります。親自身が周囲の目を気にするあまり、親自身の周囲からの評価を高めるために子供の「進歩」を道具に使おうとする人もいます。


でも「周囲の評価」が自分の意思に反する場合、それは「自己評価」を放棄したことになります。自分で自分を評価することを放棄したのですから自尊心を培うことを放棄したことになります。


一方で「周囲の評価」を気にすることによって、自分の「思考基準を売った」わけですから以後はその方向で進むことを余儀なくされます。つまり自己との乖離がますます進むわけです。これが「自分を見失う」過程だと思います。


WT組織の場合非常に問題になるのは、子供たちは常に「大人」を相手にしなければならない環境にあるということです。これは極めて異常な社会だと思います。


幼いころから親権宣教学校を始めとする、「子供が一人前の大人を相手に一段高いところから話をする。」というのはやはり異常なコミュニティだと今にしてみれば思います。


言い換えれば、幼いころから常に「大人の目」を意識しその前で「演技をする」わけです。一方大人は「他の人を動機を疑わない。」という見方を持っていますのでそういう「特権」を果たす子供を必要以上に褒めちぎります。


私は実はそうは思っておらず、子供は意外とズルいという考えです。子供は大人をだます知恵を持っている、だからこそ本当に子どもの気持ちが固まるまではバプテスマを受けさせてはならないという考えです。少なくとも思春期を経験をしなければなりません。心と身体の成長に伴って自然に生じる欲求に対しどう対処するかを経験しなければならないと思っています。


たぶん子供が自分の考えと周囲の評価との乖離を意識しだすのはこの頃かと思います。


自己評価できる基準も尺度もなく、自分の本当の考えを見極めることができず、自分という人間の存在意義を見いだすこともできない時期が始まります。


しかし周囲の評価は変わらず高いままですと、いつしか「自己評価」をすることに目をつぶり、今度は人からの評価に頼るしかない生き方をするようになると思います。そして人からの評価は時に誇りの精神を培うようになっていきます。ほめ言葉は罠になるということです。


先の記事で周囲の期待に応えようとするのが有害であるというのは、そういうことです。


「特権」というものが持つ【蜜の味】はそれこそ人からの評価があるがゆえにJWを続けていくという本末転倒が生じる結果となります。特権がなくなると、もう人は自分をさげすむと思うようになるかもしれません。でもそれは実は自分が特権的立場にいるときには、特権削除になった人をさげすんでいたことの裏返しのような気がします。


常に人からの評判が気になりますのでたとえばブログでもアクセス数を気にしだすわけです。一方でだれも自分の記事を読まなくなったりするとブログをやめようかと考えるかもしれません。いずれも「他人からの評価」を気にしている証拠です。


また常に人からの評価を気にするというのは、自分がリーダー的存在でなければ気が済まないということにもつながります。


特権削除で自尊心が傷つけられたのでしょうか。実際はそうではなくて、傷つけられたのは誇りの精神であり、自尊心はそもそもとっくの昔ー他人の評価を気にしだした時-になくなっていたではないかと思います。


自尊心が高い、つまり自己評価が高いならば、たとえ特権を削除されてもそれまでその立場にいて全力で他人のために愛を示すことができたことを十分評価できることではないかと思います。


「自分で自分をほめてあげたい。」

アトランタ五輪で銅メダルを取った有森さんの言葉です。

「メダルの色はどうかもしれませんが」の言葉の後に語った言葉です。

これは決して負け惜しみではないと思います。


ソチ五輪モーグルで上村愛子さんの言葉は

「メダルは獲れなかったけど、すがすがしい気分。全力で滑れたことで点数見ずに泣いてました」でした。


いずれもself-esteemの高い人たちの言葉です。


一方でワールドカップで「日本で応援してくれる人に申し訳ない。」という人もいます。

確かにそういう気持ちもあるかもしれません。

しかし少なくともプロの選手はそういう言葉を出していると、それは違うんじゃないかと思います。

「自分の持てる力を出し切った。悔いはない。」

私が聞きたいのはそういう言葉です。


他人の評価よりもまず自己評価じゃないだろうか、と思います。


他の人の期待がプレッシャーになるというのは自己評価を怠っているのではないかと思います。


私自身は特権削除経験は一度だけではありません。複数回あります。そのうち納得しているのは一回だけです。いずれもその時は不名誉なことだとは思いましたし、決してうれしいことではありませんでした。相当なショックも経験しています。


でも自分が特権を得ていた時に巡回訪問中の長老としもべの集まりで学んだことがあります。


当時会衆では姉妹たちに場内案内の役割を割り当てていました。巡回監督は「姉妹たちはお客さんなんですよ。姉妹たちが個々の判断で他の人を歓迎するのは自由ですが、兄弟たちこそ姉妹たちを歓迎すべき立場ではありませんか。姉妹たちが長老やしもべを歓迎している姿は違和感がありますね。」と言われました。


また、「長老やしもべは集会が始まる少なくとも20分前には来るようにするのが望ましい。」と別の巡回監督は言われました。


こういった言葉は姉妹たちに仕えるという意味で私は納得しました。そして削除されてもその行ないは続けました。削除されたら集会に来るのがぎりぎりになったとすれば、そもそも集会前の歓迎は義務感で行っていることを証明しているということになります。長老としもべの集まりで学んだことが「兄弟愛を示すものである」ならば、それは特権がなくても継続すべきものであると思ったからです。歓迎は決して僭越だとは思わなかったからです。女性を弱い器とみなすというのはそういうことだと思っていました。


他人の評価を気にしているならば、激しい罵倒で大きく傷つくこともあるでしょうし、自分の方針を変えるかもしれません。


いろいろ言われても、決して自己評価を低めることはしたくないですね。