(2013年12月18日投稿)
塔08 4月1日号p.26-29
主の晩さんの目的
イエスは,最初の「主の晩さん」の結びに,「わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい」と言われました。(ルカ 22:19)わたしたちはその式に出席するとき,確かに,イエスについて,またその死によって成し遂げられた素晴らしい事柄について思い起こすことができます。また,イエスがみ父エホバの主権を擁護されたことや,罪のない完全な人間として死んで「自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして」与えてくださったことについても思い起こせます。その贖いにより,イエスの犠牲に信仰を働かせる人はだれでも,罪から解放されて永遠の命を得られるのです。―マタイ 20:28
しかし,主の晩さんは本来,共に与る食事です。その食事に関係しているのは,(1)贖いを取り決めたエホバ神,(2)贖いとなった「神の子羊」イエス・キリスト,(3)イエスの霊的兄弟たちです。3番目に挙げられている人たちは,パンとぶどう酒にあずかることにより,イエスと一つに結ばれていることを示します。(ヨハネ 1:29。コリント第一 10:16,17)また,霊によって油そそがれた弟子として「新しい契約」に入っていることも示します。それらの人は,王また祭司として天でキリストと共に統治する人たちです。―ルカ 22:20。ヨハネ 14:2,3。啓示 5:9,10。
「しかし」という接続詞のあとの文こそ筆者が強調したいというのは論説文における常識です。
さてここで主の晩餐は本来、共与の食事とありますが、その供与の食事にこの時のパンと葡萄酒が含まれていたとは読み取れません。
またイエスキリストご自身が割いたパンを食したとも読み取れません。
というか、自分の体を自分が食するというのは論理的に整合性がありません。
マタイ福音書を読むと、食事は既に進行中でその途中もしくは終わりにイエスはパンと葡萄酒の式を設けられました。
つまりすでに「共与の食事」は始まっていたわけでこのパンと葡萄酒の事例のみが共与ではなかったのです。
ものみの塔記事によるといかにも最後の晩餐=パンと葡萄酒の式という書き方をしています。
確かにクライマックスであったとはいえ、
それまではいつもの過ぎ越しの祝い通りに多くの時間は「思い起こす時間」ではなかったのかと個人的に思っています。
ですが、JWの記念式はそういう思い起こす時間ではなくなっています。
思い起こすことよりも専らパンと葡萄酒に関するわけのわからぬ教義説明に終始しています。
2014年2月15日号も同様です。まず第一研究記事でイエスキリストを高めています。しかし研究記事の主要な目的は第二研究記事です。ここで花嫁としての自分たちを高め、そして16節では「油注がれた残りの者級は友である他の羊も愛しています。」と、まるで自分たちがイエスキリストになったかのような上から目線で語っています。しかしこの傲慢な書きようにも多くのJWはそれに気づかずありがたがっている様は、盲目になるとはこういうことなのだと痛感します。
統治体のいつもの手です。まず最初に「敬虔な」文言を並べます。しかしそのあとに自分たちを権威づけるために論理を展開し、権威付けを行うのです。第一研究記事は前座にしかすぎず、メインイベントは第二研究記事です
件の記事は「主の晩さん(を利用した統治体)の目的」と表記するべきでしょう。