こんにちは、針戸です。
いつもブログを読んでいただき、ありがとうございます。
今回、連載中の「ヘッドライトの先に、君の朝を」第6章の執筆がどうしても投稿予定に間に合わなくなってしまいました。最新話を楽しみにしてくださっていた皆様、本当にごめんなさい……!
楽しみにしていただいている分、しっかり納得のいくクオリティでお届けしたいと思っておりますので、もう少しだけお時間をいただけますと幸いです。
その代わりと言ってはなんですが、今回はCoCリプレイとは少し毛色の違う、書き下ろしの短編小説をお送りいたします。
次回こそは本編をお届けしますので、今回はこちらの短編を楽しんでいただければ嬉しいです!
それでは、キャラクター紹介を。
角海 晴樹(かどみはるき)(24)男 大学生(2浪)
身長 172cm 体重 68kg
好きなもの:ボカロ(少女レイ、サマータイムレコード、快晴)
映画(バタフライ・エフェクト、時をかける少女、サマータイムマシン・ブルース)
食べ物(冷やし中華、唐揚げ)
友人(神楽坂晴)と過ごす他愛のない時間
嫌いなもの・こと:考察厨(映画や音楽を理屈っぽく解体してドヤ顔してるのが気に入らない。「考えるな、感じろ」と思っている。)
サイダー(夏の定番っぽくてスカした感じがなんか肌に合わない。あの泡が弾ける独特の静かな音がどうも苦手)
大学の友人である「神楽坂晴」とは趣味の話が合い、親友までになった。ボカロは晴に影響を受けて聴き始めた。
机の引き出しに何故か入っているひまわりのキーホルダーを捨てられずにいる。
自分でも何故持っているのかわからない。だけど捨てるという選択肢だけは絶対にない。
高校生までの記憶が一部欠落している。
水瀬紬(みなせつむぎ)(24) 男 警察官
身長 169cm 体重 72kg
好きなもの:ハードロック(エアロスミス、メタリカ、クリーム)
映画(『ダーティハリー』『セブン』『キングスマン』)
食べもの(カレー、唐揚げ、ハーゲンダッツ(頑張った自分へのご褒美として買う。かなり高いので先輩に奢ってもらえると内心テンションが上がる。))
嫌いなもの:未解決のまま事件を放置すること(中途半端が嫌い)
サイダー(透明で甘いだけの飲み物よりコーヒーや麦茶)
街の「連続失踪事件」を追う中、2年前に自宅ポストに届いた『私と彼を見つけて』という謎の手紙を個人的に追っている。夜な夜な、顔が黒く塗りつぶされた「5人の少年少女が遊ぶ夢」を見る。高校生までの記憶が一部欠落している。
一ノ瀬 爽馬(いちのせそうま)(24)男 心理学者
身長 173cm 体重 59kg
好きなもの:シンセウェーブ(『The Midnight』『HOME』)、クラシック(化石、白鳥)
映画(ブレードランナー 2049、メッセージ、メメント)
食べ物(ビターチョコレート、ブラックコーヒー)
嫌いなもの:
論文(人間の生々しい心理を、綺麗な数値や定型文に当てはめて分かった気になっている文字の羅列が気に入らない。書くのも読むのも苦痛)
2年前から街の踏切の先に見えるようになった『黒い塔』と、そこにある石板の解読を進めている心理学者。 遮断機が下りるたびに耳の奥で響く『少女のハミング』に精神を脅かされており、それが原因で「踏切の音」や、人間の心理を記号化しようとする「論文」を激しく嫌悪している。他の2人と同様、高校生までの記憶が一部欠落している。
神楽坂 晴(かぐらざか はる)(24)男 大学生(2浪)
身長 165cm 体重 68kg
好きなもの:
ボカロ曲(『少女レイ』『ハッピーシンセサイザ』『愛していたのに…』)
食べもの(チョコミントアイス、サイダー、唐揚げ)
嫌いなもの:
熟れて中身が溢れたトマト(ツルッとした綺麗な外見が崩れて、中からどろりとした赤い中身が溢れ出ている様子を見るだけで、生理的な嫌悪感と激しい吐き気を覚えてしまう。)
『春嵐』、『ゴーストルール』、『ヒバナ』
「解けた罪の向こう側で、僕らはあの夏を忘れていく。」
それでは、本編どうぞ。
1-1 角海 晴樹(かどみはるき)
8月15日、午後12時半。 容赦なく照りつける太陽のせいで、アスファルトからは陽炎が立ち上っている。僕は大学の親友である神楽坂晴(かぐらざかはる)と待ち合わせた公園のベンチで、スマホをいじりながら彼を待っていた。
「あっつ。こんな炎天下に公園で待ち合わせとか頭おかしいでしょ。ま、冷房の効いた駅ビルにしようって言わなかった僕も大概だな。」
──そう呟いた、次の瞬間だった。突如として、喧騒が遠のく。 気がつくと、俺の目の前に、一人の少女がぽつんと立っていた。 この猛暑にはおよそ似合わない、汚れひとつない真っ白なワンピースを着て、じっとこちらを見つめている。『あなたは見捨てた』そう一言ポツリと言い残して妙に涼しい突風が吹き抜け、目を開けたときには、もう少女の姿はどこにもなかった。あまりの唐突な出来事に、思わずその場で固まってしまった。
「――おーい、お待たせ!」
ハッと我に返ると、いつの間にか蝉の鳴き声が戻っている。 視線の先には、いつもと変わらない笑顔で手を振るハルの姿があった。 先ほどの少女の言葉が胸に冷たく刺さったままだが、ハルは僕の様子を気にかける風でもなく、いつも通り気さくに話しかけてくる。
「ごめん!ちょっと遅刻したわ!」
「遅れるんだったら連絡してよ…」
「いやーほんとごめん!スマホ、充電切れててさ。」
「そっか。じゃあしょうがないよね。」
しばらく話していると、ハルはふと寂しげな笑みを浮かべて、ポケットから「何か」を取り出し、僕に手渡した。
「これ、君に持っていてほしいんだ。……僕がいなくなっても、嫌いにならないでね」
じわりと、手の中のプラスチックが夏の熱を吸っていく。 見覚えがあった。俺の勉強机の引き出しの奥に眠っているものと、全く同じだ。
けれど、そのキーホルダーについて何も知らない。どうしてあれが引き出しに入っているのか。そもそも、いつどこで手に入れたものなのか。
目の前のハルが、急に陽炎のように揺らいで見えた。
「ちょっと喉渇いたから、あそこの自動販売機で飲み物買ってきていいか? すぐ戻るからさ」
そう言い残し、ハルは公園の脇にある薄暗い路地裏の方向へと歩いていった。 ――それが、俺がハルを見た最後の姿になった。
5分、10分。いくら待ってもハルは戻ってこない。 胸に騒がしい予感が走り、ポケットからスマホを取り出した。電話をかけようとした、その時だった。
画面を見つめたまま、指先が凍りつく。
通話履歴にも、SNSのトーク画面にも、「神楽坂晴」という名前がどこにも見当たらない。それどころか、ハルと共通の大学の友人に片っ端から連絡を入れても、返ってきたのは冷淡なメッセージだけだった。
『……ハル? 誰それ。お前、熱中症で変な夢でも見てるんじゃないの?』
ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。 記憶を頼りに電話番号を直接打ち込んでみても、スピーカーから流れてくるのは「この電話番号は現在使われておりません」という無機質な機械音声だけだった。
世界から、ハルという人間の存在が急速に『削ぎ落とされていく』。
「嘘だろ……っ!」
僕はたまらずスマホをポケットに突っ込み、ハルが消えたあの薄暗い路地裏へと猛然と駆け出した。
1-2 水無瀬 紬 (みなせつむぎ)
8月15日、午前8時20分。
うだるような夏の朝。俺はデスクの上に何枚もの資料を並べ、深い溜息とともに見つめていた。 頭を悩ませているのは、この街で発生している「連続失踪事件」――いや、正確に言うなら、その事件の引き金となった“存在しない2人”についてだ。
事の始まりは2年前。自宅のポストに投函されていた、一通の手紙だった。 消印はなく、宛名も、送り主の署名もない。ただ便箋に、震える文字でこう書き残されていた。
『――私と彼を見つけて』
警察のネットワークを駆使し、筆跡、指紋、紙質まで徹底的に調べ上げた。だが、どれだけ調べても、手紙の主と思われる人物の記録はどこにもヒットしなかった。戸籍、住民票、学籍……まるで、最初からこの世界に存在していなかったかのように。街での聞き込みも完全に空振りに終わり、焦燥感だけが募る日々が続いている。
最近の不調は、それだけではなかった。 夜、目を閉じるたびに、決まって同じ夢を見るのだ。
――どこかの空き地。じりじりと肌を焼く太陽。 そこには、5人の少年少女が一緒になって、楽しそうに笑いながら遊んでいる。けれど、いくら目を凝らしても、その5人の「顔」だけは、まるで黒いインクで塗りつぶされたように全く見えない。楽しげな笑い声だけが、耳の奥に嫌にこびりついて離れないのだ。
手紙の主は、おそらく夢に出てくる少女。そして「彼」とは――。
捜査が完全に手詰まりのまま、時間だけが過ぎていく。気づけば時刻は昼を回っていた。
「おい、そんな死気迫った顔して資料睨みつけるな。ちょっと頭冷やしてこい」
背後からそう声をかけてきたのは、頼れる先輩刑事だった。 もう、配属20年にもなる大ベテランだ。冷房の効いた署内のはずなのに、俺の頭は事件の謎と焦燥感で熱く火照っていた。
「……すんません。ちょっと外の空気吸ってきます」
お言葉に甘えて、半分はサボるような気持ちで署の外へと出た。 一歩外に出ると、じりじりと肌を焼く蝉時雨が俺を迎える。
しばらく街を見て周った後もう一度、失踪事件の関連地域である古い住宅街へと足を運ぶことにした。
午後12時半。 じりじりと蝉の音が響く中、薄暗い路地裏の前に差し掛かった、その時だった。 「捜査官としての直感」が、強烈な違和感を捉えて警報を鳴らす。
その路地裏の奥から、言葉にできないほど異様で、おぞましい「気配」が溢れ出ていた。まるで世界にぽっかりと空いた穴のような、悍ましい冷気。
意を決して一歩踏み込むと、そこには――今にも泣き出しそうな顔で立ち尽くす、一人の大学生の姿があった。
1-3 一ノ瀬 爽馬(いちのせそうま)
8月15日、午後12時半。
午前中に「黒い塔」の石板を解読し終えた私は、じりじりと肌を焼く太陽の下を歩いていた。熱を孕んだ風が、容赦なく蝉の声を運んでくる。
手帳に書き留めた石板の幾何学模様を思い返すーーー『その神の名はエル=エツゥイード。神は、人の涙との希い(願い)を聴き届け、偽りの舞台を設える。なれど、それは終わりなき練習曲の如く、決して真実の結末へ至ることはない。舞台を維持する(掠れて読めない)が尽きるとき、メッキは剥がれ、黒き塔がすべてを飲み込むであろう……』。ここ数日、街の境界にそびえるあの「黒い塔」の周囲に漂う気配は、確実に濃くなっている。そしてそれと呼応するかのように、最近私の耳に届くようになった――「少女のハミング」。
踏切の遮断機が下りるたび、カン、カン、という金属音の裏側から聞こえてくる、あのどこか寂しげで、どこか懐かしい鼻歌。 心理学者として、これが自らの脳が見せる防衛本能的な幻聴なのか、あるいはこの街の住人が共有する集合的無意識の表出なのか、私はあくまで冷静に分析しようとしていた。
しかし、その思考は、ある一角に差し掛かった瞬間に遮断される。
古い住宅街の片隅。陽炎の向こうにそびえる、自分にしか見えないはずの「黒い塔」の影が、まるで意思を持っているかのように、ひとつの薄暗い路地裏へと不自然に伸びていた。
その路地裏の奥から漂ってくるのは、精神を逆撫でするような、おぞましく冷たい気配。
私の足は、吸い寄せられるようにその路地裏へと向かう。まるで、その奥に全ての答えが隠されているかのように。
薄暗い冷気が満ちる路地裏に足を踏み入れると、そこにはすでに先客がいた。 一人は、今にも泣き出しそうな顔で、手の中のひまわりのキーホルダーを握りしめている大学生。 もう一人は、鋭い視線で周囲を警戒しつつも、その異様な気配に圧倒されている警察官だ。
むっとするような熱気と、奇妙に冷たい風が混ざり合う路地裏。偶然か、あるいは必然か。引き寄せられるように出会った3人の視線が交差した、その瞬間。
三人の視界の奥──路地裏の突き当たりに、不自然なほどぽつんと佇む古い建物が目に飛び込んできた。色褪せた看板、埃をかぶったガラスケース。それは、一見すればどこにでもある「古い駄菓子屋」だった。
──いや、どこにでもある、ではない。
彼らの脳裏に、突如としてデジャヴの激しい落雷が落ちた。忘れていたはずの、泥まみれの手。10円玉を握りしめて駆け込んだ記憶。「あそこが僕たちの秘密基地だ」と笑った、誰かの声。
三人は確信する。ここは、自分が小学生の頃、狂ったように毎日通いつめていた場所だ、と。
脳裏に「5人の子供たち」のシルエットが浮かび上がる。しかし、どうしても顔だけが思い出せない。それと同時に、あまりの違和感と唐突な記憶の濁流が押し寄せ、激しい目眩が彼らを襲った。
晴樹は、自らの掌に視線を落とした。 手の中にある「ひまわりのキーホルダー」が、一瞬だけ、じわりと熱を帯びたように感じられた。それと同時に、駄菓子屋の奥から、かつてハルが言っていた言葉が、幻聴となって耳奥をよぎる。 「僕たちの団員の証、ちゃんと持ってる?」
紬は、息を呑んだ。 ずっと夢に見ていた、あの「顔の塗りつぶされた5人の少年少女」の姿。彼らが集まっていた背景の景色が、まさに今、目の前にあるこの駄菓子屋の店先だったことに気づいてしまったのだ。自分がずっと追い続けている「存在しない2人」というパズルのピースが、確実にここにある。
爽馬の耳には、これまでで最も大きく、鮮明な音が届いていた。 ──愛らしい「少女のハミング」。 それはこの路地裏の奥、駄菓子屋のさらに向こう側から聞こえてくるようだった。それだけではない。彼が追っている「黒い塔」の影の先端が、まるでこの駄菓子屋を明確に指し示すかのように、歪に伸びているのがはっきりと見えていた。
「ハル……!そこに、そこにいるのか!?」
角海晴樹の声が、湿った路地裏の空気を震わせた。掴んでいたはずの親友の存在が、世界から綺麗に消し去られた恐怖。それを打ち消すように、彼はひまわりのキーホルダーを強く握りしめる。指先に伝わる熱だけが、自分の記憶が狂っていないことを証明する唯一の縋り糸だった。
水無瀬紬は、自身の記憶の奥底に眠る光景と、目の前の現実を狂ったように照らし合わせていた。 (ああ……間違いない。ここだったんだ。俺が毎晩見る夢の、あの場所は……) 顔の塗りつぶされた5人の子供たち。彼らが笑っていた背景の駄菓子屋が、今、時を超えて目の前に現れている。自分が追うべき「存在しない2人」の正体が、この古びた引き戸の向こうで待っているのだという確信が、彼の刑事としての、そして一人の人間としての本能を激しく突き動かす。
一方、一ノ瀬爽馬はこめかみを指で押さえ、溢れんばかりに響くハミングの音に耐えていた。 (この音の正体のヒントが……いや、すべての答えが、ここにあるというのか) 理性を嘲笑うかのように伸びる「黒い塔」の影。それは真っ直ぐに駄菓子屋の奥へと、彼らを誘うように手招きしている。どんな理論でも決して証明できない、人間の記憶の澱(おり)のような何かが、この空間全体を支配していた。
三人の動揺と、それぞれの思惑が交差する中、それまでピタリと止んでいた風が、再び生ぬるく吹き抜けた。
カラン、と、錆びついたドアベルが鳴る。
誰が触れたわけでもない。ただ、古びた駄菓子屋の引き戸が、自ら招き入れるかのように、ゆっくりと内側へ向かって数センチだけ隙間を作ったのだ。
隙間から漏れ出てくるのは、懐かしい粉末ソーダの匂いと、長い間密閉されていた埃の気配。そして──。
「レイ、待ってよ」
「ふふっ、早くおいで!」
確かに聞こえた。それは、いつか聞いた、誰かの幼い声だった。
3人は意を決してガラガラと、乾いた音を立てて引き戸を開ける。お盆の熱気とともに、埃っぽくもどこか懐かしい匂いが鼻を突いた。
薄暗い帳場の奥には、いつからそこにいるのかもわからないほど小さく腰の曲がったおばあちゃんが、ぽつんと座っていた。
晴樹はスマホを取り出し写真を見せながら、恐る恐る尋ねた。
「……ここに、この人は来ませんでしたか?」
「いや、ここには誰も来てないよ。かれこれ八年はねぇ。」
老婆はそう答えたあと、晴樹の手元のスマホへ視線を落とした。
「……おや?この人どこかで見覚えが。」
濁った目を細め、懐かしむように笑う。
「ああ、ハルちゃんかい。」
「ハルちゃんは昔から、女の子みたいに可愛い顔をしてねぇ。」
懐かしい思い出話が続くのかと思ったのも束の間、老婆の口から漏れ出たのは、耳を疑うような言葉だった。
「だけど、捕まえた蝉の羽を、あの可愛い笑顔のまま、一枚一枚楽しそうに毟るような乱暴な子だったよ。よく、一緒にいた女の子……そうそう、レイちゃんといったかねぇ。でもねぇ、あの子はレイちゃんの後ろばかりついて歩いてた。」
「レイちゃんは不思議な子だったよ。誰かが『遊ぼう』なんて言わなくても、気づけばみんなあの子の周りに集まってた。」
「だからハルちゃんも、あの子を独り占めしたくなっちまったのかもしれないねぇ。」
晴樹の顔から血の気が引いていく。ハルは人当たりがよく、冗談ばかり言う男だった。だからこそ、老婆の語る残酷な姿が、別人の話のようにしか思えなかった。
動揺し、言葉を失う三人を見据えながら、おばあちゃんはしわがれた手で店の奥を指差した。
「それにしても、珍しいこともあるもんだねぇ。……だって、あんたたち3人も、昔はあの2人と一緒に、毎日そこらで遊んでいたじゃないかね。すっかり忘れちまったのかい?」
ゾクリとした寒気が三人の背筋を駆け抜ける。自分たちも、ここにいた? おばあちゃんが指し示した裏口の向こうには、狭い通路が奥へと伸びていた。三人は引き寄せられるように、その薄暗い通路を進む。
裏口を抜けた先には、トタン板と青々とした雑草に囲まれた、狭い空き地が広がっていた。 頭上からは脳を揺らすような猛烈な蝉の声が降り注ぎ、太陽がじりじりと肌を焼きつける。その敷地の中央には、ダンボールやベニヤ板、古びたブルーシートで作られた、子供の背丈ほどの「秘密基地」が佇んでいた。まるでここだけ時が止まっているかのように、当時の姿のまま奇跡的に残されている。
そして、その中央には、かつて三人が中に入って遊んだであろう、大きな3本の「土管」が重ねられて置かれていた。
懐かしさに誘われ、あるいは何かに導かれるように、三人は土管の暗い内部を覗き込む。──その瞬間、全員が息を呑んだ。
土管の内壁は、びっしりと狂気的な「文字」で埋め尽くされていた。
ひとつは、鋭い針や石で深く掻き毟るように刻まれた文字。 『晴(ハル)は最低のいじめっ子』『人殺し』『レイを殺した悪魔』『ハルを絶対に許さない』
それはハルの罪を告発し、彼を完全に否定する、生々しい憎悪の言葉。
しかし、その言葉たちを上から「なかったこと」にするかのように、別の尖った文字が、狂ったような筆跡でびっしりと上書きされている。
『違う』『違う』『違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う』
土管の奥の闇へ向かって、ゲシュタルト崩壊を起こすほどの密度で、何重にも塗り重ねられた拒絶の奔流。
その瞬間だった。
土管のさらに奥、光の届かない闇の中に、白いワンピースの裾がふわりと揺れた気がした。
「……っ!」
晴樹が思わず身を乗り出す。しかし次の瞬間には、そこにあったのは濃い闇だけだった。
代わりに、耳元をかすめるような少女の笑い声が一瞬だけ響き、すぐに蝉の濁流へと飲み込まれていく。
あまりの悍ましさと、脳髄を直接引っ掻くような蝉の鳴き声が、三人の思考を激しく掻き乱した。
秘密基地に残された狂気の痕跡に、三人は背中を焼かれるような戦慄を覚えていた。一刻も早く、この悍ましい空間から逃げ出したい。 「……僕、ハルの家知ってるんです。行きましょう。」 晴樹のその一言が、狂気に圧し潰されかけていた二人の足を動かした。 誰も拒む理由はなかった。というよりも、誰もがその言葉に縋(すが)るしかなかったのだ。 逃げるように空き地を後にした三人は、夏の陽炎が揺れるアスファルトを歩き出す。
じりじりと肌を焼く西日が、三人の影を不自然に長く引き延ばしていく。道中、誰も口を開こうとはしなかった。耳を劈(つんざ)くような蝉の声だけが、重苦しい沈黙を埋めていく。
だが、目的地に近づくにつれ、周囲の空気が妙に希薄になっていくような、奇妙な違和感が晴樹たちの肌を粟立たせる。
「……ここだ」 晴樹が足を止めたのは、どこにでもある古びた二階建てのアパートの前だった。 周囲は蝉の声に押し潰されたように静まり返っている。生き物の気配が綺麗に消え失せた鉄の階段を上り、目的の部屋の前に立つ。
晴樹が意を決してインターホンを押し込んだ。 ──ピンポーン。 間の抜けた音が室内に響き渡り、そして、それ以上の濃密な静寂が三人を包み込んだ。
「……いない、みたいだな」 紬が低く呟く。アパートに上がる前、念のためにと近隣の住人に声をかけたのだが、返されたのは「神楽坂さん? そんな人は最初から住んでいないよ」という冷ややかな言葉だけだった。 世界からハルの存在そのものが、まるで消しゴムで消されるように失われかけている。その恐るべき事象を肯定するかのように、部屋の扉には鍵がかかっていなかった。
「入るぞ」 紬が警察権限を盾にドアノブを回す。ゆっくりと開かれた玄関をくぐり、三人はハルの自室へと足を踏み入れた。
一見すると、大学生らしい小綺麗な男の子の部屋だ。 しかし──一歩奥へ進んだ瞬間、三人は異様な光景に息を呑んだ。
壁一面に飾られた、かつて五人で撮ったであろう楽しげな写真の数々。青い空、眩しい笑顔、確かな夏の記憶。 その全ての写真において、真ん中に写る一人の少女の「顔部分」だけが、執拗に、激しく、画鋲で幾度も突き刺され、無惨に抉り取られていた。
愛しているのか、それとも憎んでいるのか。 穴だらけになった少女の顔からは、ハルの持つ「歪んだ執着」が、どろりとした悪臭を放つかのように部屋中に充満している。その狂気に圧されながら、爽馬の目が部屋の端にある学習机、そしてその上にぽつんと置かれた一冊の手帳を捉えた。
三人は吸い寄せられるように机へ近づき、その手帳を開く。そこには、目を背けたくなるような「世界の真実」が綴られていた。
前半──十五年前の、五人でラムネを飲んだ眩しい秘密基地の思い出。 中盤──十年前の、歪み始めたハルの独占欲。『少し意地悪して、僕のことだけを考えさせてあげよう』という、凄惨ないじめの告白。 そして後半──八年前の、少女が踏切で命を絶ったあの日。
『僕はレイをいじめてなんてない。僕はレイを愛していた。僕は、レイを、助けようとしたんだ』 『誰も僕を責めない。紬たちだって、何も言わずに見てたじゃないか』
ページを捲る三人の指が、恐怖で細かく震える。自分たちの「罪」が、ハルの独白によって容赦なく暴かれていく。 最終ページに書かれていたのは、八年前にハルが神に願って作った『悲劇のヒーローのセカイ』の崩壊、そして──「今日、八月十五日。レイと夏祭りに行く。絶対に、僕たちだけの臨海駅で──」という言葉だった。
「これは……どういう、ことだ……」 晴樹が声を絞り出した、その瞬間だった。
じりじりと部屋を包んでいた蝉の声が、突如として「ザザッ……」というテレビの砂嵐のような耳障りなノイズに遮られた。 部屋の空気が一瞬で凍りつき、壁に貼られた「顔の抉られた写真」が一斉にカタカタと狂ったように震え始める。
──カラン。
静まり返った部屋に、乾いた硬質な音が響いた。 音のした学習机の上に目をやると、いつの間にか、古い電車の切符が三枚、ぽつんと並べられていた。 印字された文字は掠れて読めないが、乗車駅の欄には「臨海駅」という、この街の端にある、今は使われていないはずの廃墟となった無人駅の名前がくっきりと浮かび上がっている。
同時に、爽馬の耳に、あの少女のハミングが滑り込んできた。 今度ははっきりと、電車の警報機の音──「カン、カン、カン、カン……」という、終焉を告げるような金属音と共に。
手の中の切符に記された「臨海駅」の文字。そして爽馬の耳奥に響き渡るハミングと警報機の残響が、次に三人が向かうべき場所を明確に示していた。
「……行くぞ」 紬が短く促し、三人はハルのアパートを後にした。
一歩外へ出ると、世界はさらにその異常性を増していた。 じりじりと照りつけていたはずの太陽は、いつの間にか厚い雲の向こうへと隠れ、代わりに空全体が不気味に濁り始めている。街並みはいつも通りの景色のようでいて、どこか色彩が欠落したように色褪せて見えた。
すれ違う通行人の姿は一人もない。車の一台すら通りかからない。 まるで、ハルの存在が世界から消し去られたのと同時に、この街の「現実」そのものが急速に崩壊へ向かっているかのようだった。
「僕たちが、ハルと一緒に……レイちゃんをいじめていた?」 歩を進める中、晴樹が掠れた声でポツリと呟いた。手帳に記されていた残酷な真実と、自分たちの『傍観』という罪。 誰もその問いに答えることはできなかった。ただ、胸の奥で燻る強烈な罪悪感と焦燥感に急き立てられるように、三人の足取りは自然と速くなっていく。
アスファルトを踏み締める靴音だけが、不自然なほど静まり返った街に響く。 やがて、住宅街の路地を抜け、街の最果てへと近付くにつれ、周囲の空気がじっとりと熱を帯び、同時に肌を刺すような冷たい風が吹き抜け始めた。
そして、視界が開けたその先。 辿り着いたのは、街の最果てにある無人駅「臨海駅」の踏切だった。
──そこは、すでに完全な異常空間と化していた。
時刻はまだ昼過ぎのはずだ。それなのに、頭上に広がる空はべっとりと血を流したような、禍々しい夕闇の赤に染まっている。容赦なく肌を焦がす熱気と、どこからか吹き付ける不気味に冷たい風。相容れない二つの空気が混ざり合う中、静寂を切り裂くようにして、あの音が響き渡った。
「カン、カン、カン、カン……」
誰もいない無人駅に、踏切の警告音だけがやけに大きく、三人の頭蓋骨を直接揺らすように鳴り響く。やがて、重い音を立てて遮断機がゆっくりと下りていく。その向こう側の空間が「ザザッ……」とテレビの砂嵐のように激しく歪み始めた。
(……あ、あ、ここは) その光景を目にした瞬間、紬は心臓を素手で掴まれたような強烈なデジャヴに襲われた。
同時に、爽馬の耳にはこれまでで最も大きく、頭を叩き割るような音量で「少女のハミング」が響き渡っていた。あまりの痛みにこめかみを押さえる爽馬の視界の端で、街の境界に立つあの「黒い塔」が、まるでこの踏切に向かって倒れ込んでくるかのように不自然に巨大化し、圧倒的な質量で迫ってくるのが見えた。理屈の通じない狂気が、確実に彼らの精神を削りにかかっている。
下りた遮断機の向こう側、赤黒い陽炎の中に、ぽつんと一人の人影が現れた。 消えたはずの親友、神楽坂晴だ。 しかし、その姿には現実味がなく、輪郭がノイズのように細かくブレている。ハルは己の頭を掻き毟り、狂ったような笑みを浮かべ、あるいは今にも泣き出しそうな顔で、遮断機の向こうから三人を見つめていた。
「あはは……あははは! 来てくれたんだね! でも、違うんだ、みんな聞いてよ! 僕は、僕は悪くないんだ!!」
ハルが叫んだ瞬間、踏切の向こうの空間がガラガラと音を立てて崩壊した。 現れたのは、八年前の「あの日の光景」だ。空間にホログラムのように生々しく再生される。 そこに映し出されたのは、精神を病み、ボロボロになりながら踏切へ歩いていく少女・レイの姿。そして、それを歪んだ笑顔で見つめ、絶望へと追い詰める過去のハルの姿。 ──誰もがその凄惨な現実に息を呑んだ、その時だった。「ジジッ」という激しいノイズと共に、映像が無理やり書き換えられていく。
過去のハルの卑劣な表情が、「必死に涙を流すヒーロー」の顔へ。 突き放すように伸ばされた手は、いじめの手ではなく「レイを救おうと必死に伸ばされた手」へ。 ハルの強すぎる罪悪感とエゴが、凄惨な過去を、都合のいい『綺麗な悲劇の記憶』へとリアルタイムで上書きしていく。現実そのものが、彼の妄想に従ってグニャグニャと歪んでいく。
「そう、僕はレイを助けようとしたんだ! 僕は悲劇のヒーローだ! レイを殺したのは僕じゃない、世界だ!! だから……だから僕をそんな目で見るなァ!!」
悲痛な叫びが響き渡った瞬間、ハルの姿は完全にノイズとなって霧散した。 同時に、あれほど激しく鳴り響いていた「カン、カン」という踏切の音が、ピタリと止まる。
世界に突如として訪れた、耳が痛くなるほどの静寂。 ゆっくりと踏切の遮断機が上がっていく。しかし、上がった遮断機の向こう側に広がっていたのは、線路でも、いつもの街並みでもなかった。
そこにあったのは、天を衝くほどに巨大な「黒い石造りの塔」。 禍々しい気配が、開かれた門の奥からどろりと溢れ出し、三人の足を、まるで影のように冷たく絡め取る。
ハルの残した世界のバグ、そして彼自身の行方を追うためには、この「黒い塔」の内部へ進むほかに道はなかった。
踏切の遮断機をくぐり、黒い塔の門へと足を踏み入れた瞬間──三人の五感は、強烈な「夏の匂い」に塗りつぶされた。
容赦なく肌を焦がす西日。むっとするような草の青臭さ。そして、頭蓋骨を直接引っ掻くように鳴り響く、耳を聾(ろう)するほどの蝉の濁流。 気がつくと、黒い塔の中にいたはずの晴樹たちは、トタン板と枯れ草に囲まれた「あの空き地」に立っていた。
しかし、先ほど訪れた駄菓子屋の裏の空き地とは決定的に違っていた。空はべっとりと血を流したような、禍々しい夕暮れの赤に染まり、空間の端々にはテレビの砂嵐のようなノイズが走っている。ここが現実ではなく、謎の力によって切り取られた「過去の檻」であることは、肌に刺さるような異様な気配が証明していた。
「……また、ここに戻ってきたのか?」 紬が周囲を警戒しながら、低く鋭い声を出す。 だが、その視線の先にあるものに気づき、三人は同時に息を呑んだ。
空き地の中央に佇む、ダンボールとブルーシートで作られたあの秘密基地。その前に、見覚えのある三本の土管が横たわっている。 歪んだ時空のノイズに煽られるようにして、土管の奥の闇から、じわり、と何かが這い出してくるような、どろりとした気配が漂い始めていた。
爽馬は手帳を強く握り締め、こめかみを走る痛みに耐えながらその光景を凝視する。 ハルの残した世界のバグを解き明かし、失われた記憶の全貌を掴むためには、この歪んだ過去の幻影と、正面から向き合うしかないのだと、三人は確信していた。
晴樹は、何かに引き寄せられるようにして、重ねられた土管の内部へと視線を向けた。
外の世界の禍々しい赤色やノイズが嘘のように、その土管の中だけは、汚れひとつない綺麗な灰色を保っている。まるで、そこだけが時間の流れから完全に切り離されているかのように。
静まり返ったその空間の中央に、ぽつんと一冊のノートだけが残されていた。
ノートを手に取る。表紙には拙い文字で「だんいんちょう」と書かれていた。
ページをめくると、そこには他愛のない落書きや、秘密基地のルールが賑やかに描かれていた。晴樹、紬、爽馬の文字も、確かにそこに残されていた。
そして、最後のページをめくった、その時。 パラリ、と挟まれていた【一枚の古い写真】が滑り落ち、地面に落ちた。
写真には、あの空き地を背景に、肩を組んで満面の笑みを浮かべる「5人の子供たち」の姿が写っていた。
ハル、レイ、そして──まぎれもない、幼い頃の3人の姿が。
3人は激しいショックと共に全てを思い出した。
最初からすべてを知っていたのだ。 ハルの異常な執着も、レイが毎日、泣きそうな顔で耐えていたことも、全部。
ハルを助けに来たつもりだった? ハルの狂気を暴き、救い出すための探索だった? ──違う。本当に都合のいい嘘をつき、現実から逃げていたのは、晴樹たちの方だったのだ。
ーーー8年前のあの夏の夕暮れ、レイが死んだ。 罪悪感と恐怖に押しつぶされそうになった晴樹たちの前に、あの怪物のような神様が現れた。その時、神に願ったのだ。 「こんなに苦しくて怖いなら、レイのことなんて、最初からいなかったことにしたい」と。
ハルは自分の罪を「レイを救おうとした悲劇のヒーロー」という美しい物語に書き換えた。 そして、自己保身のために、レイという少女の存在ごとその夏の思い出を、自分たちの犯した裏切りを「丸ごと忘却する」という、最悪の加害を選んだのだ。
記憶の檻が完全に壊れ、それぞれの脳裏に「罪の瞬間」が鮮明にフラッシュバックする。
ーーー10年前のある日の夕方、みんなが帰り出した頃レイが珍しく思い詰めたような顔をして話しかけてきた。
「ちょっといい?話したいことがあるんだ。」
「うん、いいよ。」
僕の服の袖を掴み、泣きながら言う。
「….ハルが怖いの。助けてよ。」
「….なにがあったの?言いづらいんだったらいいよ。話さなくて」
「ううん。話す。じゃないと私がこわれちゃう。」
「…ハルが…ハルが私をいじめるの…」
彼女の口から飛び出したのは信じ難いことだった。
「どんなことがあっても、最後まで味方でいてくれるって約束したよね」
「お願い。助けてよ。」
「….」
グループの雰囲気をこれ以上壊したくない。その一心だった。
「ハルがそんなことをするはずがないよ、考えすぎだって」
僕は笑いながら彼女の手を振り払った。
僕は彼女が出した必死のsosにNOを突きつけたんだ。
ーーー8年前のあの日、俺は駅の周りにある本屋を回っていた。目当ては漫画雑誌だ。2軒目を見終わり踏切の近くにある本屋に向かおうとした時、この臨海駅の踏切へと、今にも消えそうな足取りでふらふらと歩いていくレイの姿を見た。 俺は彼女のただならぬ異変に確実に気づいていた。しかし、面倒なことに巻き込まれたくない、関わりたくない一心で、強く目を逸らし、足早にその場を立ち去った。
彼女を見殺しにしたのは、俺だ。
ーーーある日の放課後、教室の後ろ。私はハルから執拗な言葉や暴力を受け、うずくまって咽び泣くレイの姿を目撃してしまった。 しかし、次は自分がターゲットになるかもしれないという恐怖、自己保身から、息を潜めて「誰にも言わず、見なかったこと」にした。彼女を孤独の絶望へ突き落としたのは、私だ。
気づいてしまった。自分たちは被害者でも、正義の追跡者でもない。 少女を死に追いやったハルの背中を後ろからそっと押し、その死を都合よく記憶から消し去った『傍観者という名の加害者』だった。
脳髄をかきむしるような蝉の声が、今度は僕たちを激しく責め立てるように鳴り響く。
真実を思い出した瞬間、空き地の地面や土管の隙間から、触れるだけで精神が狂いそうになる「悍ましい黒い泥」がドロドロと大量に溢れ出してくる。僕たちが排出した自己保身の呪いに、思い出の秘密基地が容赦なく沈んでいく──。
しかし、身体は沈まない。
「ツゥィ……ツゥィ……」
脳裏に響く名状しがたきハミングと共に、無数の黒い泥の触手があなたたちの四肢に絡みつき、足元が完全に崩落するのと同時に、僕たちの身体は奈落へ落ちるのではなく、重力を無視して、天を衝く黒い塔の最上階へと猛烈な速度で引きずり上げられていく。
──逃がさない。目を逸らさせない。 少女の未練と何かの悪意が、罪人を引き裂くように上空へと連れ去っていく。
真っ逆さまに落ちていく浮遊感のあと、僕たちの足はドサリと「畳」のような冷たい感触を捉えた。
──チリン、チリン……。
耳を突くのは、どこか哀愁を孕んだ風鈴の音。そして、遠くから響くおどろおどろしい祭り囃子。 気がつくと、僕たちは黒い塔の最上階──殺されたレイの未練と何かの悪意が具現化した「夜の夏祭り」の空間に立っていた。
頭上には、赤黒い斑点のような光を明滅させる無数の提灯。しかし、よく見ればその灯りは人間の脂肪が燃えるように油じみた臭いを放ち、立ち並ぶ出店の屋台には、顔を黒いインクで塗りつぶされた人間たちが生気なく佇んでいる。
そして空間を不自然に分断するように、あの踏切の遮断機が、カン、カン、カン、カン……と、狂ったような速度で警告音を鳴らしながら下りているのが見えた。
下りた遮断機の向こう側。そこには、汚れひとつない白い浴衣を着たレイが、まるで無数の肉の糸で吊るされた操り人形のように不自然に宙に浮いている。その足元からは、滝のように「黒い呪いの泥」がドロドロと噴き出していた。
その泥のプールの中で、ハルが頭を抱えてのたうち回っていた。
「あ、あああ……! ごめんなさい、ごめんなさいレイ! 僕が殺した、僕が君を追い詰めたんだ……! だけど、僕は、僕はヒーローになりたかったんだぁぁ!!」
ハルが叫ぶと同時に、彼の「歪んだ執着」や「いじめの記憶」を栄養にして、足元の黒い泥が生き物のようにハルの身体に這い上がり、包み込んでいく。 ズルズル、ピチャピチャと音を立て、ハルの肉体を巻き込みながら、泥は「おぞましい異形の怪物」へと変貌する。
「ツゥィ……ツゥィ……。美しいな、お前たちの願い(エゴ)の泥は。さあ、劇を続けよう。お前たちが望んだ、誰も傷つかない『忘却の舞台』を……!」
遮断機が跳ね上がり、ハルの身体を飲み込んだ泥の怪物は、耳を劈くような咆哮を上げながら、紬に向けて漆黒の触手を猛烈な勢いで突き出した。
「紬、危ない!」
僕は叫ぶと同時に、身体が勝手に動いていた。紬の腕を掴み、強引にその場から引き剥がすようにして横へと飛び退く。
ドガァァン!!
直前まで紬がいたアスファルトの地面に触手が突き刺さり、激しい音を立ててクレーターのように抉れる。巻き上がった土煙と、ツンとする強烈な泥の臭いが辺りに立ち込めた。
「くっ……!」
地面に倒れ込みながら前を見上げると、触手はまるで生き物のように蠢きながら、再び獲物を狙うように鎌首をもたげている。 宙に浮く白い浴衣のレイは、ピクリとも動かない。ただ、その虚ろな瞳が、僕たちをじっと見下ろしているようだった。
「ハル……、レイ……」
紬は怯えに身体を震わせながらも、泥の怪物と化したハルを見つめていた。その瞳には、恐怖だけでなく、どこか深い悲しみが混ざっている。
怪物は再び「ツゥィ……ツゥィ……」と不気味な鳴き声を響かせ、今度は僕と紬の両方をなぎ払うように、複数の触手を同時に鞭のようにしならせた。
その時、爽馬の脳裏に古い記録の断片がフラッシュバックした。
『その神の名はエル=エツゥイード。神は、人の涙との希い(願い)を聴き届け、偽りの舞台を設える。なれど、それは終わりなき練習曲の如く、決して真実の結末へ至ることはない。舞台を維持する(掠れて読めない)が尽きるとき、メッキは剥がれ、黒き塔がすべてを飲み込むであろう……』
「エル=エツゥイード……!」
怪物の鳴き声だと思っていたあの不気味な響きは、この神の名前だった。 ハルの「ヒーローになりたかった」という歪んだ願いと、レイの絶望の涙そして私たちの願い。それが最悪の形で噛み合い、この偽りの世界——誰も傷つかない代わりに、決して前に進むこともできない『忘却の舞台』を作り上げてしまった。
(考えろ…掠れた部分はなんだ?何かヒントがあるはず。)
(私たちに共通すること…)
(レイに関する記憶だけじゃない。ハルに関する記憶も消えていた!)
私は紬と晴樹に向かって叫んだ。
「紬、晴樹! ハルの執着や記憶がこの泥のエネルギーになってる! あいつの『エゴ』を否定するか、それとも別の『本当の願い』をぶつけない限り、この無限の舞台は終わらないんだ!」
しかし、怪物の攻撃は激しさを増していく。ハルの歪んだ感情を取り込み続ける泥は、私たちの言葉すら掻き消すように、さらに巨大な質量となって押し寄せてきた。
「ハル! 聞こえてんだろ!」 俺は一歩前に踏み出し、泥の怪物の中心、ハルの肉体が取り込まれたであろう澱みに向けて声をぶつけた。 「お前をいじめっ子だと罵りもしなかった、レイの異変に気づいていながら、面倒ごとに巻き込まれたくなくて目を逸らした……! あの日、あの踏切でレイを見殺しにしたのは、この俺だ!!」
警察官として、一人の人間として、ずっと目を背けてきた最悪の『傍観』という罪。それを告白した瞬間、紬の胸の奥から、ドロリとした罪悪感とともに、確かな記憶の熱が物質となって溢れ出す。
「お前だけのせいにするつもりはねえ! 俺たちのエゴも、全部ここに置いていく! だからハル、お前もそのふざけたヒーローごっこを今すぐやめろ!!」
「泥の怪物の動きがピタリと止まる。内側から「い、嫌だ……やっぱり僕は悪くない……僕は助けようと……」という狂信的な拒絶の声が漏れる。
さらに紬の激しい言葉を拒絶するように、神エル=エツゥイードの泥が、ハルの叫びと共鳴して一層激しくのたうち回る。ハルの「悲劇のヒーローでありたい」という歪んだ執着が、真実を突きつけられて暴走を始めたのだ。
何十本もの泥の触手が、一斉に3人を圧殺せんと頭上から降り注ぐ。
「ハル……」
僕は手の中にある、あの「ひまわりのキーホルダー」を壊れるほど強く握りしめていた。 これだけは捨てられなかった。理由なんて分からなかった。だけど、今なら分かる。これは僕たちの「団員の証」だったんだ。あの日、泣きじゃくるレイの手を笑って振り払った、最低な僕たちの。
「ハル、僕はもう逃げない!こんなクソッタレの舞台を終わらせてやる!」
「僕はレイのsosを無視した!君はいじめ殺した!これは許されることじゃない!一緒に罪を償え!」
怪物の肉体がボロボロと崩れ始め、ハルの顔が露出する。
「やめろ……うるさい……お前らだって…お前らだってぇ…!」
爽馬はこめかみを強く押さえ、頭痛に耐えながらも、静かに、そして誰よりも冷徹にその言葉を告げた。
「……ハル。お前が作ったその綺麗な物語が、ただの自己保身だってことくらい、見なくても分かるよ。僕も同じ、最低の臆病者だからね」
爽馬はハルの目の前まで歩みを進め、冷たい視線をまっすぐに突き刺す。
「僕も、自分がターゲットになるのを恐れて息を潜めていた最低の臆病者だ。だから、お前一人にその嘘の舞台に逃げ込むことは許さない。お前の『悲劇のヒーロー』という戯言を、僕たちの『自己保身』という醜い防衛心理ごと、ここで綺麗さっぱり解体してやる」
3人の魂を削るような必死の言葉が、ハルが縋り付いていた「悲劇のヒーロー」という最後の虚飾を、完全に引き裂いた。
追い打ちをかけるようにレイは今にも消えそうな細い声で言う。
「もう、いいでしょ。いい加減やめてよ。いつまで私に執着するの?」
泥の怪物の輪郭が、ドクン、と大きく脈打ったかと思うと、ボロボロと黒い砂のように崩れ落ちていく。 露わになったのは、醜い怪物の姿などではなく、ただ恐怖と罪悪感に震える、一人の不器用な少年の姿だった。
ハルはゆっくりと天を仰ぎ、「ははっ。」と乾いた笑いを漏らしたあと、ぽつりと呟く。
「ああ……もう、いいや。疲れたよ。」
その顔から、狂気も、執着も、全てが消え去っていた。 自身の醜い加害の事実を、そして自分が犯した罪の重さを完全に受け入れたハルは、子供のようにその場に膝をつき、激しく泣き崩れる。
彼が現実を受け入れた瞬間、エル=エツゥイードへの燃料の供給がピタリと止まり、最上階を満たしていた黒い泥は、一瞬にしてサラサラとしたただの消炭へと変わり、風に飛ばされて消えていく。3人の目の前には、無防備に晒されたボロボロと崩れていく神格の核──【エル=エツゥイード】の本体が姿を現す。
──さあ、この狂った劇を終わらせる時だ。
崩れゆく神格の核を前に、僕たちはそれをただ消滅させる道を選ばなかった。
差し出された「世界を書き換えるシステム」の残滓へ、僕たちは自分たちのドロドロとしたエゴを、命そのものを注ぎ込む。すべてを忘れる加害でもなく、ただ悲劇に沈む結末でもなく、もう一つの可能性を求めて。
「レイが死なず、ハルも狂わず、俺たちも裏切らない、そんな夏を、もう一度──!」
神格の激しい脈動とともに、世界のすべてが猛烈な速度で巻き戻っていく。ハルも、レイも、僕たちも、光と泥の濁流の中に溶けて混ざり合っていった。
──ハッと目を覚ます。
気がつくと、僕たちは夕暮れの公園のベンチに座っていた。空は穏やかで美しい茜色に染まっている。 爽馬も、紬も、それぞれの表情で静かになった街を見つめていた。脳裏を苛んでいたハミングはもう聞こえない。スマートフォンの画面は「8月16日」を示し、世界は正しい明日へと動き出していた。
ただ、胸の奥には、ぽっかりと大きな穴が空いたような奇妙な喪失感だけがあった。
公園の入り口にいる2人の姿が目に留まった。 穏やかに笑う男と、その隣で微笑む、白いワンピースを着た女。2人は親しい友人のように笑い合っている。 すれ違いざま、彼らはふと不思議そうな顔でこちらを見たが、すぐに「気のせいか」と笑い合い、そのまま雑踏の中へと消えていった。
遠ざかっていく2人の背中に、どうしようもない懐かしさを覚えながら、僕は無意識にポケットに手を入れた。
指先が触れたのは、小さな、金属の硬質な感触。 取り出してみると、そこには夕暮れの光を浴びた【ひまわりのキーホルダー】が静かに横たわっていた。
なぜこれを持っているのか、誰と分け合ったものなのか、もう今の僕たちには思い出せない。 けれど、それを見つめる僕たちの目からは、なぜか温かい涙が一筋、こぼれ落ちた。
──遠くで、蝉の声だけがジリジリと響いている。
「ええと、なんで集まってんだっけ」 ベンチから立ち上がり、頭を掻きながら言う晴樹に、紬が呆れたように息を吐いた。 「お前が会いたいっつったから集まったんだろ」 「そうだったね。……あっついし、あそこのファミレスにでも入ろうか」 晴樹が公園の向かいにある看板を指差すと、爽馬が静かに頷いた。 「いいよ。僕は冷たいブラックコーヒーでも飲みたい」 「おし、決まりな。俺は唐揚げだな」
三人は自然と肩を並べ、冷房の効いたファミレスへと歩き出す。
胸に残る切なさと、けれど確かにそこにある救いを抱えて、僕たちは2人の幸せな笑い声が溶けた普通の街へと歩き出す。忘却の舞台を終え、あの夏の向こう側へ。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
今回の短編が、本編を待つ間のちょっとした息抜きになっていれば幸いです。
次回は必ず「ヘッドライトの先に、君の朝を」の第6章をお届けしますので、もうしばらくの間だけお待ちください。
それではまた次の記事でお会いしましょう。
