ベルギー映画『ガール』。
主人公はトランスジェンダーの女の子ララ。
ララはホルモン治療をしながら、外科手術を待ちわびている。
完璧な女の子になるために。
心は充分に女の子であるララは、父親や医師たちが、
慎重に治療を進めようとすることに、いら立つ。
でも。
笑顔で物分かりの良い態度で対応し、本心を隠している。
自分のために、転居したことで、父親と幼い弟を犠牲にしているという負い目があるからだ。
一足飛びに女の子になりたいララは、ホルモン錠剤を、こっそり倍の量飲んだりする。
ヨーロッパでは当たり前なのか、ララがトランスジェンダーであることは、
学校でも、ララの通うバレエ教室でも、公になっている。
ララがバレエで実力を見せ始めると、女の子たちの陰湿ないじめが始まる。
合宿の夜、ある女の子が言う。
「あなたのあれを見せて。あなただって私たちの裸を見ているでしょう」と。
確かに、ララが、プールの時に、もぐって、女の子の体を見つめるシーンがある。
くびれたウエストに丸いヒップ、膨らんだ胸。
ただ、ララの視線は自分にないものを持つ彼女たちへの憧憬であり、
彼女たちの幼稚な興味に見せかけたいじめとは違う。
でも。
ここでもララは抵抗をあきらめ、言いなりになる。
ホルモン治療と精神的なストレスで、心身が追い込まれるララ。
とうとう、運命の朝が来る。
父親と弟を見送ってひとりになったララは、
冷静に受話器を取ると、救急車を呼ぶ。
それからボール一杯の氷と鋏を用意する。
窓際に立って、背中を見せるララ。かがんで事に及ぶ。
呻きながら倒れるララ。
病室で横たわるララの傍には父親がいる。
ララの清々しい笑顔に、父親はハッとし、そして涙を流す。
常日頃、「ゆっくり女の子になればいいんだよ」とララに語っていた父親は、
それが愛情であっても理解でなかったことに気付く。
どれほど、ララが、自分の体を疎んじていたか、
娘の行為は、尊厳を持って生きるための唯一残された手段であったと気付く。
ラストで、ララが地下鉄の構内を歩くシーンがある。
以前は車内で、うつむき加減で、きれいにカールした髪や顔に手をやるしぐさは、
パーティーに出かける女の子のようだった。
が。
この時のララは、肩のあたりでカットした髪に、まっすぐ前を見ながら歩く、
女の子というより、ひとりの女性に見える。
この対比が、絶妙だ。
トランスジェンダーが、いかに精神的成熟をもって(強いられて)、
社会で暮らしているのか、垣間見た気がする。
社会で公であることが、トランスジェンダーを理解しているとは違うこと。
わかったふりをして、立ち位置を変えずに眺めることを、理解とは言わないこと。
気付いて知るべきことが、世の中にはまだまだある、とつくづく思う。
最近、面白い映画に当たって(?)嬉しい。
映画の感想は「思い」で書けるから楽しい。
「思い」は他人を傷付けなければ、自由に書ける。
その点、環境問題などのテーマは裏付けが必要だ。
自分の経験したこと、信頼している人の言葉しか載せないようにしている。
言葉は力にもなるが、人を惑わし、迷わすこともある。
いつも心に留めておきたい。
