境界性人格障害を患いボダ子と呼ばれた娘と著者である父親の赤松さんが、東日本大震災後の被災地で生きた日々を綴った、ご本人によるとほぼ実話とのこと。
読んだらつらくなりそうだなという先入観をやすやすと越えてくるうえに、ラストでは娘さんは行方知れずのまま、あまりにも救いがないけれど、気安く救いなんて求めようと思わせる内容ではない。
被災地で復興に携わることで、生きる糧を、居場所を、何かを求めようとする人々が、報道で伝えられたような優しさであふれた復興の日々を過ごしていたのではないというドキュメントでもある。
父は土木の現場で、娘はボランティア集団で、そこに生きる場所を見つけるけれど、どこで出会っても、人間は搾取する側とされる側に二分される。
そして父は両側のはざまで潰されそうな日々を疲弊しながらも生き、娘は搾取される性を自分が必要とされているという糧にする。
境界性人格障害の症状として性の垣根がとても低くなってしまうという傾向があるとのことだけれど、自分が愛されている、求められているという場所にやっと出会えてしまったのかもしれない。
震災後なのでまだ十数年前なのだけれど、赤松さんが出会った人たちの中には、現代の話とは思えないような想像を絶する貧困を生きる人たちがいる。
どんな場所であっても、人はこうもお金と性に縛られて生きなければならないのか、否むしろ、どんな状況におかれてさえ、人は性を求めて生きるものなのだと思い知らされる。
哀しい人と思うのは蔑みだ。
だから哀しみを感じても、それはその人の在り方で、読み手が哀しむものではないのかもしれない。
ただ、こういう小説にはやはり別の哀しさがある。
父を亡くして年月が経ってもその喪失の底知れない寂しさに囚われている私は、どんな状況であってもこんなふうに父親に依存できることをたまらなく羨ましく思うのだ。