小説の虫が囁いてる

小説の虫が囁いてる

小説を読むことが大好きなおひとりさまの読後感ブログです。読んだ感想を書いてみたくてブログにしてみました。小説の内容や結末に触れているところもあり、未読の方にはネタバレになってしまうことをお断りしておきます。

ある日突然、営業所の閉鎖と回顧を通告された証券会社社員たち四人と、ただ一人だけ本社への栄転を勝ち取った次長のそこからの数日間を描いた物語。

解雇となる所長の片桐、社員の周二、契約社員の牛山、派遣社員の麗子と夏美、そして栄転を勝ち取った阿久津、それぞれの視点が入れ替わりながら語られていく。

時は不況真っただ中、次の就職先はおいそれと見つかりそうにない。

片桐は亡くした妻の元へ行こうと死を決意する。

引き寄せられるように妻と旅行に行った場所へ向かい、一緒に食べた料理を食べ、二人で渡った橋から身を投げようとするその心の動きがとても丁寧に書かれている。

周二はただ愕然とし、麗子と夏美は派遣会社から次の派遣先はすぐには紹介できないと告げられる。

牛山は若い頃の夢だった音楽に戻ろうと昔の仲間たちを訪ね、それぞれがもう今の人生を生きていることを知るが、それでもバンドの再結成を持ちかける。

そして牛山が出会った資産家の徳田の視点が加わり、徳田のがむしゃらに生きてきた人生が綴られる。

 

阿久津のように利己的に成績を上げられる人間がやはり上からの覚えはめでたく生き残り、周二のように、営業成績よりも高齢者のためを思ってリスクのある投資信託は買わないように教えてあげるような人間は淘汰されてしまう、これは金融業界の現実なのかもしれないなと思わされた。

それぞれのエピソードはわりとありきたりでさしたる斬新さはないし、ラストも、そんな夢みたいな話あるか?と思ってしまうけれど、一人ずつにきちんとそれぞれの人生があり、物語がある。

そしてとにかく料理の描写が素晴らしく、小説全体にしずる感が滴っている。

「ぼくの腕じゃなくて、だれがつくろうが、ちゃんと作れば食べものはおいしいんです」

こんな言葉を読むと、ちゃんとお料理をしてちゃんと食べようという気持ちになる。

周二が作るお料理が、この作品の核であり、主役でもある。

 

 

 

母親が病死してしまうというその時を受け入れられず自殺未遂をし、その処置の間に母親が亡くなってしまうという経験を持つ雅祥(まあくん)が、父親の庇護のもと引きこもり生活をしているところへ、父親がどこかの女性から預かってきたという赤ちゃん(タカヤ)を連れてくる。

ところが、父親が急逝してしまい、引きこもりのまあくんとタカヤが残される。

この概要からして、一人の若い男子が突然自分が面倒を見なくてはならなくなった赤ちゃんの育児にてんてこ舞いするポップなハートフルコメディだと思い込んで読み始めた。

これが全然違う。

まあくんとタカヤの日々を描きつつ、育児、引きこもりの青年が依存していた親を喪うということ、不妊治療、育児鬱、シングルマザー、中学生の妊娠、特別養子縁組、中絶、事業の破綻、莫大な負債、連帯責任、すぐ身近な問題でありながら自分がそうならなければ他人事の問題の種々を、すべて当事者目線でしっかり描いている。

そのうえで、作品全体が、タカヤの母親は誰なのか問題を軸にした大きなミステリーになっている。

時間軸をミスリードした叙述トリックなのだけれど、読み終えて結論を知ってみると、一つ一つとても丁寧に錯覚するようにミスリードされていて、心地よいやられた感がある。

父親が連帯保証人になっていた借金を返せと言ってくる金融屋や、昔の同級生など、潔いほど紋切り型の敵役が登場したのもおもしろかった。

重いテーマにしっかり向き合いつつ、まあくんの育児が日を追って成長していく様子はやはり読み心地がよく、おむつ交換など、かなり生々しくリアルに描いているけれど、やはり赤ちゃんというのは瑞々しいものだと思わされる。

そして、警察や児童相談所などに掛け合い、どこかで引き取って欲しいと願い続けたタカヤがついに乳児院に引き取られることになったその時、タカヤを手離せなくなってしまったまあくんがとても愛おしく、読んでいて嬉しくなった。

自分がタカヤに必要とされていると認識することで、やがて自分がどれほど両親から愛情をもらっていたかに気づいていく。

すでに他界している両親を思う場面はとても切ないけれど、読後感はとても良かった。

 

 

 

 

境界性人格障害を患いボダ子と呼ばれた娘と著者である父親の赤松さんが、東日本大震災後の被災地で生きた日々を綴った、ご本人によるとほぼ実話とのこと。

読んだらつらくなりそうだなという先入観をやすやすと越えてくるうえに、ラストでは娘さんは行方知れずのまま、あまりにも救いがないけれど、気安く救いなんて求めようと思わせる内容ではない。

被災地で復興に携わることで、生きる糧を、居場所を、何かを求めようとする人々が、報道で伝えられたような優しさであふれた復興の日々を過ごしていたのではないというドキュメントでもある。

父は土木の現場で、娘はボランティア集団で、そこに生きる場所を見つけるけれど、どこで出会っても、人間は搾取する側とされる側に二分される。

そして父は両側のはざまで潰されそうな日々を疲弊しながらも生き、娘は搾取される性を自分が必要とされているという糧にする。

境界性人格障害の症状として性の垣根がとても低くなってしまうという傾向があるとのことだけれど、自分が愛されている、求められているという場所にやっと出会えてしまったのかもしれない。

震災後なのでまだ十数年前なのだけれど、赤松さんが出会った人たちの中には、現代の話とは思えないような想像を絶する貧困を生きる人たちがいる。

どんな場所であっても、人はこうもお金と性に縛られて生きなければならないのか、否むしろ、どんな状況におかれてさえ、人は性を求めて生きるものなのだと思い知らされる。

哀しい人と思うのは蔑みだ。

だから哀しみを感じても、それはその人の在り方で、読み手が哀しむものではないのかもしれない。

ただ、こういう小説にはやはり別の哀しさがある。

父を亡くして年月が経ってもその喪失の底知れない寂しさに囚われている私は、どんな状況であってもこんなふうに父親に依存できることをたまらなく羨ましく思うのだ。

女児殺人事件の冤罪で懲役15年の刑期を終えた元受刑者が、自身の冤罪を晴らすためホームページを立ち上げ事件の真相を探っていく。

元受刑者柏木、取り調べをした刑事で柏木の服役中に定年した村上、事件の被害女児の母親聖子、事件当時小学生で、被害女児と同じ時期に男性から声をかけられたことで警察から事情を聴かれた経験を持つ那恵、の四人の視点で語られていく。

冤罪であるという事実、村上は無実の容疑者を陥れようという意図はまったくなくそこにある証拠で柏木を犯人だと確信しているという事実、被害者遺族の終わらない悲しみの日々、というそれぞれの基盤をもとに、事件の真相が明かされていく。

一章の終わりに、聖子が村上を拳銃で撃ち、自首する。

そして二章になるとまったく展開が変わり、村上の上司で事件当時署長だった久留島が被告人として裁判に立っている。

説明的な展開がなくくるりと景色が変わっているような描き方は読んでいてとても小気味よく楽に感じる。

事件当時、声をかけられた男性が柏木であるのか面通しに警察に呼ばれた那恵が、警察官のなかにその男性に似た人物を見かけていたという話、聖子がなぜ久留島の裁判で自分の不利になるような証言をしたのか、そういった不可解な点を追求することで柏木が事件の真相を突き止める展開もおもしろい。

けれど、事件被害者の母親として、娘が帰宅せずに心配するところから娘を失った後の日々のくるしさまでも丹念に一人称で語っていた聖子が実は女児を殺していたという真相は、読み手としてはうーむ?と首を傾げてしまった。

語ってきた内容がどう処理されるのかと思ったけれどそのまま終わってしまい、これは小説としてどうなのかちょっと消化不良が残った。

そして、被害者遺族の聖子から拳銃で数発は撃たれ、元上司の久留島から日本刀で斬りつけられ、それでも生きて裁判の証言にも立っている村上もなかなかのツッコミどころではある。

 

 

 

山本幡男さんという実在の人物の物語を映画化した作品のノベライズ。

とにかく読むのがつらかった。

これほどまでに過酷な運命を強いられた人たちがいたのだという現実。

終戦後のシベリア抑留を描いた小説はこれまでもいくつか読んだことがあったけれど、実話であるというその重みもあって、本当に読んでいていたたまれなかった。

捕虜として極寒のロシアで重労働を課せられながらも、日本へ帰国するという希望を持ち続け、周りの捕虜たちの支えにもなっていく山本という人物を軸に、山本に救われて心を開いていく捕虜たちの視点と行き来しながら過酷な日々が綴られていく。

今のように通信手段もなく、手紙のやり取りが認められるまでは生死すら確認のしようがない状況で、日本にいる家族の無事を信じ、また会える日を信じ、家族もまた山本が無事に生き抜いていると信じてそのお互いの思いだけで家族の絆をつないでいる。

知性もあり誰にでも心を傾ける山本の、時にロシア人にも歯向かっていく命知らずの強さに読み手の方もハラハラさせられる。

そして捕虜たちと同じように、山本に惹きつけられ、山本がいてくれることに強く心を支えられる。

終盤で山本の病状が悪化していく過程は、その分余計につらく、おこがましいけれどやはり取り囲む捕虜の仲間たちと同じ体感で死なないでくれと願わずにおれない。

そして、激しい痛みと闘いながら、意識ももうろうとし力もなくなっていくなかで、「未来のために」という手記と、家族に宛てた遺書を、執念のごとく書き上げる。

日本人が書く文書は警戒されてロシア人に没収されてしまうので、仲間たちは遺書を記憶して遺族に伝えることを思いつく。

小説のなかで登場人物が亡くなることはよくあるけれど、こうまで死なないでほしいと感情が溢れてしまうことはそうない。

だから山本が亡くなった場面から以降は、そのどうしようもない喪失感が苦しいほど。

あまりにも読むのがつらくて、逃げるように読み急いだけれど、読み終えてしまうとまた、山本や捕虜の仲間たちとこれでお別れだと、重ね重ねの喪失感におそわれる。

あまりにも過酷な日々、理不尽な理由で叶わない帰国、そんな閉塞感のなか、折々に挟まれるささやかな娯楽や俳句、そして妻モジミとの結婚秘話など、ホッと小さなぬくもりを与えて物語を救ってくれている。

「未来のために」は山本の死後、ロシア人に奪われてしまい、山本の生前も誰も読んでいなかったので記憶にとどめて伝えることもできなかった。

もし残されていたら、どれほど価値のある歴史的文献となったであろう。

否、そんなことではない、ただただどんなことが綴られていたのか知りたい、心からそう思う。

 

w県警を舞台にした女性警察官たちの連作短編集。

全編を通して、県警初の女性警視である松永菜穂子という女性が大きな存在となり、男尊女卑の警察社会で組織の在り方を変えようと孤独な闘いをすると同時に女性警察官たちの精神的な目標や支柱になっている。

旧態依然の男性上位体質を持つ田舎の県警で奮闘する女性警察官たちのお話、ではあるのだけれど、最初の一章であまりに思いがけない黒い結末に驚く。

父親を尊敬する女性巡査が正義感あふれる頑張りやさんなのかと思いきや、とんでもない思いを秘め、三人もの命を手にかける。

菜穂子がいとも簡単にこの女性巡査に騙され利用されるのもどこか清々しいほどで、菜穂子の真っすぐな純粋さを感じさせる。

そしてそのままその章は終わり、もしやこの作品全体が黒いものを秘めた人物たちが紡がれていくのかと思いきや、次の二章目では事件とはまた別の恋愛のところでとてもハートフルなハッピーエンドを迎える。

そうなると、この作品が次にどう転ぶのかもうわからない。

名前を使ったミスリードの叙述トリックであったり、痴漢事件が冤罪なのか否かに捜査員たちが翻弄されたり、父親を殺害したと自首した神父が実は父親の自殺を隠して信仰に背いて自死した父を信仰の上で救おうとしたことを見抜いたり、一つ一つのストーリーがとにかくおもしろく、吸い込まれるように物語に没頭していたととんでもなく驚かされて、の行き来が楽しくて仕方ない。

最後の章ではまたとんでもない展開になる。

一章で出てきた女性巡査が菜穂子が起こした死亡事故を暴きまたその手を穢す。

どの人物にも利己的な正義があり、また自己保身もある。

そして定石通りの勧善懲悪ではなく、裁かれない悪があり、利用する作為もある。

警察というものを信じていいのか分からなくなるような容赦のなさが随所に投げつけられる。

 

第三章「ガサ入れの朝」がとても印象深く素敵だった。

女性鑑識官の視点で語られていたものが実は警察犬だったというのが分かってくるのも心地よい驚きであったけれど、自分の命を体を張って守ってくれた上司への想いを胸に秘め、なんとしても彼の役に立ちたいと願う思いがとてもいじらしく描かれている。

女性警察官たちから打ち明け話をされやすい、自分は黙って聞いているだけなのだけれど、というくだりも、確かに犬にいろいろと愚痴や独り言を語っている人って多いなと、どこを読み返しても伏線が散りばめられていて唸ってしまう。

現代エンタメ小説を読みなれているつもりでも、こういう騙され方は心地よく、こんな素敵なお話を残酷な展開で挟むその構成が斬新で、やはり日本文芸界に現れたモンスター葉真中顕さんはただ者ではない。

そして、貧困家庭や問題家庭ではない、家庭環境も傍目にはきちんとしていて高い教育を受けて育った子供にも、外からは見えない虐待が隠されている場合があること、こういった問題をきちんと楔のように打ち込むところは、やはり葉真中さんの小説である。

 

 

第156回直木賞、第14回本屋大賞ダブル受賞作品。

映画化もされとても話題になっていたのでずっと気になっていた作品、やっと読めました。

文庫本上下巻で945頁、かなりの大作ですがあまりにもおもしろくて、早く続きが読みたくて、追い立てられるように読み切ってしまいました。

やはり本屋大賞には外れはないと確信、嬉しい。

直木賞もとても好きな賞ですが、こちらは稀に首を傾げる作品がないこともないけれど。

 

作品全体が一つのピアノコンクールのお話。

そこにエントリーするコンテスタントたちそれぞれの視点、そして審査員や記者、ステージマネージャー、調律師、ホームステイ先の花師など外側から見たコンテスタントたちを描く視点とを行き来しながら、コンクールが描かれていく。

主軸となる四人のコンテスタントの中でも特に異色なのが、風間塵という16歳の少年。

幼少期から英才教育を受けてこなければなかなか立てないコンクールの舞台に突如彗星のごとく現れた養蜂家の息子で、父親の仕事を手伝いながらほとんど学校にも行かずフランスで暮らしている。

ともすれば読み手の意識が、塵が優勝するのか否か、というところに傾いてしまいそうになるところを、他のコンテスタントたちの人間ドラマを綿密にみっちり描くことで、誰が優勝するのか、というところに繋ぎとめてくれる。

クラシック音楽に明るくない読み手の私でも、音楽が目に見えるようで、劇画的に立体的に物語が見えてくる。

音楽家の方たちが膨大な時間をかけて弾きこなせるようになった楽曲を、私たちは享受しているのだということも学んだ。

音楽家ではない作家さんがこれを書いてしまうのかと畏怖を覚えてしまう。

担当編集者の方が文庫版解説を書いてくださっているのですが、最初のほうは隔月で連載されていたとのこと。

書籍化されたものを読めてよかった、連載で追っていた読者の方はどれほど待ち遠しかっただろう。

最後の本選の結果発表のシーンを描写せずに余韻を残して終えているのもとても印象深い。

ここで誰が優勝するかを見届けるためにこの長い長い小説を読んできたのに、そこを潔く終えてなお喪失感を感じさせない恩田さんの筆力にただ心地よいほどに打ちのめされる。

ラストのページに審査結果が書かれていて、そうか、そうなったのか、と思う気持ちはやはり読み終えてしまってコンテスタントたちとお別れする寂しさとリンクする。

とてもよい小説を読み終えた時に稀に感じられるこの寂しさにしばらく身を浸していたい。

 

 

 

温かくて優しくて切なくてとても素敵な小説。

1927年から1997年まで、約10年ごとに一つの章で、家族のうちの一人の視点を交代しながら綴られていく。

関東大震災で妹愛子を亡くした八重と、婚約者の愛子を亡くした光生がやがて心を通わせ合い結婚して同潤会代官山アパートメントで暮らし始める。

八重の語る結婚生活の始まり。

光生の語る娘恵子が幼い日の出来事。

恵子が語る幼き日に想いを寄せた幼馴染との終戦後の再会。

八重が語る恵子の子供たちである孫たちとの日々。

恵子の子供で八重と光生の孫である進が語る青春の葛藤。

ガンの終末期を迎えた光生が語る病院からの一時帰宅。

進の語る八重の曾孫で進の姪である千夏の家出。

千夏の語る阪神淡路大震災と同潤会アパートメントの解体前の最期の日々。

そしてプロローグとエピローグに、やはり八重の語りで茫洋とした高齢期と、引っ越してきた若き日との対照的な追憶が語られる。

それぞれの章のラストで思いがけない展開になったり、意外な真相が明かされたりして、ハートフルな物語だけではなく、ビブリア古書堂の事件手帖を書いた作家さんらしい仕立てがあってとてもおもしろい。

時代背景が変わっていくなか、それぞれの世代に生き方があって、皆が思い合って地に足をつけて生きている。

大切な人を震災で亡くした光生が、当時は最先端のモダンアパートで震災にも強いとされた同潤会アパートメントで家族を守ろうとした、そんなアパートも年月とともに旧弊し、八重と光生は歳を取っていく。

その在り方を綺麗なだけではなく悲しみも切なさも丁寧に描いていて、光生が長い年月を過ごしたアパートの三階の部屋にもう一度上がりたいと願う場面は胸に刺さる。

 

とても印象に残ったのは二章目の恵子の子供時代。

恵子のために八重と光生が用意して隠しておいたクリスマスプレゼントの猫のぬいぐるみが誰かに盗まれてしまい、二人は隣の棟に住む俊平を疑う。

俊平は光生に尋ねられて自分が盗んだと言い、すぐに返すと約束する。

俊平の妹のハナが当時まだ治療の難しかった肺結核に罹り、動物にも病気を罹患させてしまうのではないかと杞憂して可愛がっていた猫を遠ざけるようになっていた。

寂しい思いをしているハナに、両親が内緒で用意してくれているクリスマスプレゼントの猫のぬいぐるみを抱かせてあげようと、隠し場所からぬいぐるみを持ち出して渡していたのは恵子だった。

俊平も恵子もハナのためにお互いをかばい合い、嬉しそうにぬいぐるみを抱くハナから返してもらうことができなかった。

その真相が恵子や俊平から教えられるのではなく、二人の様子から光生が察する展開がとても柔らかく描かれている。

他の章でも、相手が言葉にできない真相を察する目を皆が持っている。

なんて素敵な小説を書く人なのだろう。

すべての場面で人が人を思う優しい気持ちがそっと寄り添っている。

文庫本の表紙の絵もとても素敵です。

 

 

 

 

 

帚木蓬生さんの作品は見つけ次第すべて読んでいるというくらい敬愛しています。

この作品は、戦時中から戦後にかけて、戦場で医療に尽力した軍医たちの一人称語り15編からなる短編集です。

ノンフィクションという形ではないけれど、巻末にずらりと並んだ参考文献のあまりの数と、帚木さんご自身が多くの方から聞いた話から形創られた史実ともいえる作品ではないかと思います。

15人の医師それぞれが経験する戦時下での医療がさまざまな角度から語られていきます。

冒頭から、同世代の若者が特攻隊として明日死にに行く、その許可のための診断をする医師としての自分、生き残っていく者と死にゆく者との対比が、淡々と穏やかに、だからこそいっそう酷なものとして描かれていて、一冊読むには重いものを与えられる覚悟がいるなと思わされます。

医療器具も薬品も食料も圧倒的に不足する中、空襲による怪我や伝染病、栄養失調、次々と運ばれてくる傷病者にできうる限りの治療をし続ける医師たちも、空襲や爆撃から自分が生き残らなければならない。

目をそむけたくなるほど惨い怪我や遺体の描写もありますが、そんな遺体が町中いたるところに積まれている、戦争という歴史があったのだということ、そういう風景を当時の人たちは皆見たのだということを改めて思い知ります。

とりわけ、広島に原爆が投下された直後に広島に赴任した章では、原爆症の症状がかなり克明に綴られ、あまりにも痛ましい。

原爆投下では命を落とさなくても、その後の症状で苦しんだ人たちのこと、自分は本当に何一つ知らなかったのだと思わされます。

 

軍隊の上官というのは恐ろしくて意地の悪いものと言う先入観がありましたが、ところどころにとても心ある上官が登場し、作品全体を温かくしてくれています。

そして、歴史として知っている者が読めば、もうこの年には終戦になるのにと思えるけれど、当時医科大を出た若者たちの認識として、軍医として一生生きるものだと思い、終戦後の医師としての生き方には思いが至らなかったというその独白もとてもショッキングでした。

解説の方も書かれていましたが、軍隊用語や階級、医学用語など難しい言葉も多いですが、説明的な文章があまりなく、興味があれば自分でググりながら読むのも一案であると読者に任せてくれているような印象がありました。

戦争を経験している方たちが少なくなっていき、やがて実際に話を聞いて小説を書くということもできなくなる、残された時間は多くはない、と同時に、難しい文献を紐解かなくても、スマホでたやすく用語を調べることができる、そんな二つの時代がリンクして成立した刹那の小説。

もうあとどれくらい、こんな奇跡の小説が読めるだろう。

 

高齢者が生活に困窮し、刑務所に入ることを所望するという報道は昨今少なからず目にする。

生活ができるのみならず、病気になったり介護が必要になっても、医療刑務所で手厚く看護介護をしてもらえる。

社会で正しく生きてきた高齢者やその家族が、高額を支払って医療を受けたり介護施設に入らなければならないこと、それでも介護士が不足して充分な介護が受けられないこと、介護をする家族にのしかかる負担、そういったものと比して、国のお金で介護してもらえるという刑務所がむしろ理不尽なほど恵まれた待遇に思えてしまうという社会の矛盾。

この小説は、そんな報道を見て刑務所に入ろうと思い立った桐子さんの犯罪奮闘記。

結婚はせず、両親を介護して見送り、姉とも疎遠になって一人になってしまった桐子さんは、親友のトモと暮らすことになる。

健全に生きてきた高齢者が孤立し、孤独死も増えている昨今では、こんなふうに友人と暮らせるのはとても幸せなことなのだろう。

二人はつつましい暮らしをし、月に一度のホテルビュッフェを唯一の贅沢に、仲良く心豊かに暮らす。

けれども、そんな暮らしもわずか三年、トモは亡くなってしまう。

そこからこの物語が始まる。

トモを亡くして本当に一人になってしまった桐子さんの寂しさがいたたまれないほど胸に痛く、読んでいても切なくて切なくて、そして自分にもこんな寂しい将来がくるのだろうなとやりきれない。

そんななかさらに追い打ちをかけるように窃盗に入られ、いよいよ困窮してしまう。

そして桐子さんは思い立つのだ、刑務所に入ろうと。

これは突飛な考えではなくむしろ必然でもあり、健全に懸命に生きてきた桐子さんですらそう思わずにおれない、だからこそ現実に刑務所に入りたいという高齢者がいるのだろう。

そこからさまざまな犯罪に挑んでいく。

万引き、偽札作り、闇金、高齢者詐欺、誘拐、そして殺人依頼まで受けてしまう。

桐子さんは、パートの清掃と犯罪を企てる過程とのなかで、さまざまな人と出会う。

この物語の主幹となるのは、この出会う人たちである。

こんなに素敵な人たちと出会えるのはさすがに出来過ぎではあるけれど、一人一人が本当に魅力的で、一人ぼっちの桐子さんを救ってくれる。

だからこそなのだ。

ささやかな収入であっても、働き続けること、社会と関わり続けること、人と出会い続けることが生きるために本当に必要で、救いになるという、きっと著者の方もそれを何より伝えたかったのだろうと思う。

正しくきちんと生きて、しっかりと仕事をする、この人は大丈夫だという信頼を得る、それが自分の武器となる。

そんなことを桐子さんが教えてくれる。