お金を欲しがっているのは私ではない | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

今も時々お金について考える事が有ります。

 

それで何時も「要るのか要らないのかよく分からないな」と思っているのですが、「皆が使っているから」という言葉を目にした時です。

 

「お金を欲しがっているのは私ではない」と思ったのです。

 

では、「誰が欲しがっているのか?」と言うと、その“皆”です。

 

更に深堀して「その“皆”とは誰の事か?」と言うと、「私が他人に抱いている思い込み」です。

 

このブログを読んでいるあなたも、きっとお金を欲しがっている筈だ。

 

…という思い込みです。

 

かなりの確率で当たっていると思うのですが、外的な事実がどうであれ、私の中にそのような思い込みが在る事自体に変わりはありません。

 

 

 

皆がお金を欲しがっている。

 

この言葉には私の期待したものに近い反応を感じます。

 

「この思い込みが正しい事を証明したかった」と仮定します。

 

そうしますと、正しい場合は何しから私に都合の良い事が有って、誤っている場合は何かしら私に都合の悪い事が有る筈です。

 

「あなたもお金が欲しいですよね?」と訪ねた時、あなたが「はい」と答えれば、私は「やっぱりそうですよね」と安心します。

 

しかし、あなたが「いいえ」と答えれば、私は「嘘言わないでください」と疑います。

 

ここに何かヒントが有ると思うのです。

 

 

 

「人がそれを欲しがっている」と知った時、私は与えたくなります。

 

実際に持っていて、「渡しても良い」と思うなら、見返りを求めずに渡すと思います。

 

これは結構意外な事なのですが、心の何処かで「人を喜ばせたい」という気持ちが有るのかも知れません。

 

ただし、むやみやたらに節操無くばら蒔くような真似はせず、ある程度心の深い部分で「与えたい」と思った時に限ります。

 

そして、その為には「私自身の分は既に持っている事」が必要になります。

 

この「持っている」が物理的な量なのか、内面的な充足度なのかは今は分かりませんが、ここもヒントになると思います。

 

 

 

改めて「お金を欲しがっているのは私ではない」という言葉を見詰めると…いや感じると、本当の事のように思えて来ます。

 

「皆が欲しがっている」というのは思い込みだったとしても、「お金を欲しがっているのは私ではない」というのは思い込みではない気がします。

 

むしろ、「皆が欲しがっている筈だ」という思い込みに乗せられて、「私自身もお金を欲しがっている」と思い込んでしまったのかも知れません。

 

冷静になるとやっぱり私はお金を欲しがっていないのですが、お金を欲しがらない事に後ろめさを感じた経験が過去に有ったのかも知れません。

 

 

 

お金を欲しがらない事はおかしい事でしょうか?

 

私は人に「おかしい」と思われたくなかったのでしょうか?

 

そもそも、“おかしい”とはどういう事なのでしょうか?

 

“おかしい”にもまた、興味深い反応を感じる事が出来ます。

 

この“おかしい”はスピリチュアル的な違和感ではなくて、「社会の常識から外れている」という感じのように思えます。

 

“おかしい”と思われて困る事が有るのか?

 

“おかしい”が意味する事は?

 

そういう事を考えたくなりますね。