彼女から感じた尋常ではないものは“愛”だと思っていました。
しかし、それは“幸せ”だったのかも知れません。
私は“愛”から逃げたのではなく、“幸せ”から逃げたのかも知れません。
「不幸な愛」は存在し得る事から、“幸せ”は“愛”よりも上の次元と見て良いと思います。
“愛”ですら受け取り切れていない状態で、更に上のものまで提示されては、とても恐れ多くて受け取れたものではなかったのです。
「男は女を“幸せ”にするものだ」という古臭い価値観は消えつつあります。
むしろ逆だと思っています。
「男が女を“幸せ”にする」のではなく、「男は女によって“幸せ”になる」が正しい気がします。
「男の方が“幸せ”にしてもらう立場である」という事です。
その為に必要なのはその人の存在のみです。
私は「あなたを“幸せ”にしますから、私と結婚してください」とは言いません。
言うなら「あなたと居ると“幸せ”ですから、私と結婚してください」でしょう。
「これから“幸せ”にする」のではなく、「今既に“幸せ”である」という事を伝えます。
「“幸せ”にしたいから(なりたいから)」という理由ではなく、「“幸せ”だから」という理由で結婚を申し込みます。
「あなたを“幸せ”にする自信が無いから、他の男に行って」と言うよりは、遥かに相手の“幸せ”にフォーカスしているはずです。
何故なら、「あなたは私にとって“幸せ”そのものです」と言っているに等しいからです。
私は“幸せ”の受け取り拒否を辞めます。
心の何処かで「私には“幸せ”は似合わない」と思っていたかも知れませんが、“幸せ”を受け取る価値が有る存在として認めます。
そうでないと、「どうしてこれだけ窮屈な感じがするのか?」という疑問を解消出来ません。
あらゆる形の“幸せ”は全て私のものとして受け取ります。