「“赦し”、または“癒し”」が近いと感じます。
残念ながら「完全一致」ではなさそうですが、「ニュアンスはかなり近いものがある」と思います。
「最大の“復讐”。正しい“復讐”。それは“赦し”」みたいな結論になるかも知れません。
そんな事を感じ、考えていると、人を見る目も変わって来ます。
こちらを傷付けようとする人に対しても、「何でこんな事をするんだ!」から、「この人の心は傷付いているのだな」に変わるかも知れません。
「攻撃対象に理解され、癒された」となると、完膚無きまでに叩きのめされる事は必定です。
己の過ちに気付き、自ら悔い改める事になれば、攻撃された側からするとこれ以上無い“復讐”となるに違いありません。
ここまで来たら、「もう人の領域ではない」と思います。
「神の領域に片足を突っ込んでいる」と言っても過言ではなく、「取り繕うのではなく、自然体でそういう人が居たら“聖人”と呼んで良い」と思います。
「自分を傷付けようとした者の心を理解し、“赦し”と“癒し”で返報する」という姿勢には、もはや“聖性”すら感じられます。
そんな人間が居るわけがありません。
もし居たら、それは人間の姿をした別の何かです。
“赦し”や“癒し”では微妙に届かない何かが私の中に在ります。
私はそれを知らねばなりません。
それは弱く、微かです。
「何を言っているような気がする」という事は辛うじて察知出来る程度で、「やり返したい!」みたいな大声ではありません。
「こんなに小声では、他の声が有ったらかき消されてしまう」という事が分かります。
一体何と言っているのでしょう?