“怖い”を観察しますと、「怖がっているのは私ではなくで身体である」という事が分かります。
「怖がっているのは身体であって私ではない。つまり、私は何も怖がっていない」という事ですね。
親友を亡くした時の“悲しい”も同じパターンでしたね。
「私は観察するだけ、意図するだけで、その対象物からは何も影響を受けない」のです。
本当の自分とか、悟りとか、多分そういう“私”の事を言っているんじゃないかと思うのですが、今はそんな事は問題ではありません。
現在の主役は“怖い”であって、物語のテーマは「“怖い”がどうなるか?」という事ですからね。
私の中に在るものは、全て私のものです。
言い換えるなら、私の中に在るものは、創造主たる私が造り出した創造物です。
私は自らを「創造主である」という自覚を持ちませんし、「持ちたい」とも思いませんが、「そういう理解で概ね正しい」と思います。
私の中に在るものを、私は拒絶しません。
実際に在るのなら、拒絶する余地が何処にも無いからです。
問題なのは今回のように、無自覚で拒絶している場合が有る事ですが、そうと分かれば「私のもの」として受け取る意図を発します。
“怖い”もまた、私の中に在るものとして認め、受け取るべき対象です。
“怖い”の真意、あるいは「“怖い”は何を求めているのか?」を知ろうとする意思を持てます。
私は「“怖い”が求める望みを正確に叶えたい」と思います。
「1つに成りたい」というのであればそれで良く、「他の性質に変容したい」というのであればそれで良く、「本当の姿を知りたい」というのであればそれで良いです。
私は“怖れ”に対して「お前を取り込む」と宣言しましたが、その意味は「お前の望みを叶える」という事になるでしょう。
「何でも言え」という事ですね。
その為には私が“怖い”を上回っている必要が有ります。
自分より力の弱い相手に何を言っても無駄なのは、内も外も変わりません。
もうしばらく時間が掛かるでしょうが、首尾良くやり遂げたいと思います。