“お金”は存在しない | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

私はこのブログをPS4で書き込んでいて、画面を映すモニターが目の前に有るのですが、私はいちいち「“モニター”が有る」とは認識していません。

 

「“モニター”というレッテル(名前)を張っていない」という事です。

 

もちろん、“モニター”を感じてもいません。

 

可能な限り正確に表現するなら、「“見る”が在る」になると思います。

 

PS4なら「“書く”が在る」ですね。

 

私は普段特に意識もしていませんが、そこに認識が有るとするならば、「物体が有る」ではなく、「動作が在る」という認識の仕方をしていると思います。

 

 

 

直ぐ左を向けばハンガーにバスタオルが掛かっています。

 

これは「“バスタオル”が有る」ではなく、「“身体を拭く”が在る」です。

 

トイレには“お尻を拭く”が在り、キッチンには“キッチンを拭く”が在ります。

 

「“トイレットペーパー”が有る」とか、「“布巾”が有る」とは認識していません。

 

私はどうしても“お金”を発見出来ずにいるのですが、「それらと同じように物体として認識していないからなのかも知れない」と考えています。

 

「こんなに探しても確たる“お金”が見付からない」となると、「“お金”は存在せず、存在するのは“お金”を意味する動作(あるいは概念)である」という可能性を模索すべきかも知れません。

 

「“女”は存在したのだから、“お金”も存在するはずだ」という考えは一旦忘れようと思います。

 

 

 

 

私は紙幣や貨幣をどう認識しているか?

 

例えば「“交換する”が在る」という考えも可能性の1つです。

 

「“取引”が在る」でも、「“約束”が在る」でも、色々考える事が出来ますね。

 

「“お金”は物体だ」というレッテル・制限・思い込みの外に出れば、このように様々な可能性が沢山見えて来るのではないでしょうか?

 

実際に手に取ってまじまじと見詰めても、「“紙”だ」とも「“金属”だ」とも認識出来ません。

 

「“何だか良く分からないもの”が在る」とするのが精一杯です。

 

モニターを「“プラスチック”だ」と、バスタオルを「“布”だ」と認識していないのと同じ事なのでしょう。

 

 

 

私は以前「“お金”が無い」と感じていたのですが、「元々“お金”は存在しなかった」のかも知れません。

 

「存在するのは、動作なり概念なり機能である」という可能性は追求する価値が有るでしょう。

 

スタート地点は「“何だか良く分からないもの”が在る」に定めます。

 

これで「少なくとも在る事には在る」という立ち位置は得られるでしょう。