日毎に変化を感じていますが、未だ言語化には至りません。
それでも「私が満足出来る“評価”である」という事には変わりありません。
「内容が分からないのにそう感じる」という何とも不思議な感覚です。
「働く理由、もしくは働かなくて良い理由を探している」と考えてこう成ったので、その線を突き詰めて行くべきでしょうか。
“お金”には「働く事を避ける為」という意味を持たせていた事もあり、「何を“評価”されているのか?」を知る事で大きく前進出来る事を期待しています。
そう、私は「自分自身に“期待”している」のです。
これは“疑い”が転じたものでしょうか?
その通りに成らなかった場合が面倒な為、他人に“期待”するのもされるのも御免被りたいですが、自分自身の“期待”なら何の問題もありません。
その通りに成ろうが成るまいが、両方込みの“期待”である事を分かっていて、どっちに転んでも痛くも痒くも無い事も分かっているからです。
これで“評価”に続いて、“期待”も他人から得る必要が無くなりました。
“評価”と同じく、最初から求めていない事は分かっていましたが、より完全なものとなりました。
どっちも働く事に通じる概念であり、やはり関係が有るのかも知れません。
「何かしら可能である様を意味している」と思っています。
“出来る”とか“やれる”とか、そういう感じのものですね。
“優秀”や“有能”が当て嵌まりそうですが、そういう次元ですら無さそうです。
確かに働く事だけを見れば当て嵌まりそうですが、“お金”も含まれているようにも思える為、それだけには決め手に欠ける気がします。
「“優秀”だから“お金持ち”に成れるのか?」と言うと、そうではないですよね。
「“お金”が要らなくなるのではないか?」という線も考えられます。
もしそうなら、これが一番纏まりが良いでしょう。
私は感じているものに対して、“お金”が要らなくなる事を“期待”しているのかも知れません。
その考えに対して、感じているものは僅かに反応しています。
否定的な感じではありません。
有り得る可能性として考慮する価値は有るでしょう。