“お金”を避ける為に“お金”を求めている? | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

「何かを避ける為に“お金”を欲している」というのはビンゴだと思います。

 

「今回は遂に核心に迫れるのではないか」と期待しています。

 

「求めているものを避けている」というのは実に良くある話で、今回の私の場合は「“お金”を避ける為に、“お金”を欲している」という可能性すら感じられます。

 

「私が避けようとしている“何か”こそ、私が求めている“お金”かも知れない」という事です。

 

私が今感じているものこそ、その“何か”であって、私が“お金”と呼べるものかも知れません。

 

 

 

反応の仕方は随分控え目です。

 

「的は得ていそうだ」という実感は有るものの、「弱い」と言うか「遠い」と言うか「静か」と言うか、「良く観察する必要が有りそうだ」とも思います。

 

私は「これに違いない」と、少なくとも「今までで最高の手掛かりだ」と思いますが、慎重に油断無く観察を続けます。

 

 

 

“低賃金”は、“これ”を隠すダミーだと思います。

 

むしろ、「“それ”が暴かれるくらいなら、“低賃金”で働いて隠した方がマシ」という事さえ有り得ます。

 

「余程都合が悪い事なのだ」と思いますが、感じているものから察するなら、そこまで酷いものではない気がします。

 

かつては“恋愛”も強く求めていながら、「自分には不相応」と極度に怖れて避けようとしていましたが、今回もそのパターンかも知れません。

 

 

 

今のところ、そのまま“お金”ではないようです。

 

感じているものと、“お金”という言葉が合わないのです。

 

やはり、「私が“お金”と呼べる別の言葉なのだろう」と思います。

 

例えば、“幸せ”とか、“豊か”とか、そういうものですね。

 

“性欲”を“女”と呼ぶように、“何か”を“お金”と呼ぶのだと思います。

 

 

 

残念ながら、ここまで書いても感じているものにはほとんど影響が有りません。

 

「間違ってはいない」という確認にはなっても、正解を引き出すには至りません。

 

感じているものは、怖れて避けなければならないようなものとは思えません。

 

二十代の頃の私にはとても怖いものだったにしても、今の私なら「それが何なのか?」を知れば受け入れる事が出来るもののはずです。

 

「どんな言葉を掛けても合わない」となると、今の私が思い付かない範囲に答えが有るのでしょう。

 

「感じているものは、私が思い付かない範囲の外に在る言葉を発しているのだ」とすれば、私は聞き役に撤する他有りません。