私の“任せる”は“放任”とは違う | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

私がガイドにしている事は“放任”です。

 

「成り行きに任せよう」とか、「外界には干渉せずに居よう」と思っていて、「それが最善だ」と考えているのは事実ですから、「“放任”している」で正しいと思います。

 

しかし、私の期待している“任せる”や“信用”は、“放任”とは違う気がする事を知りました。

 

「全部自分でやる」という自立心と、“放任”が相反するのです。

 

“任せる”や“信用”は自立心と反していない事から、「ガイドに任せる」のではなく、「私に任せろ」と言いたいのでは?

 

…と考える事にしました。

 

 

 

私はガイドに、「私に全てを任せろ」という事で合っているか?…と確認しています。

 

それに対する反応は在ります。

 

ただし、“イエス”か“ノー”かは判別出来ません。

 

こういう場合は「“ノー”ではない」という点を評価し、観察を続けます。

 

「私に任せろ」が私の期待している“信用”か?

 

それを確かめるのです。

 

 

 

確かに、「私は貴方に任せるが、貴方は私に任せてはならない」では、真に“任せる”とは言えません。

 

「人に任せるのは良いが、人に任されるのは嫌」というのは、私のスピリチュアル理論的にも誤りです。

 

「任せよう」と思うなら、「任されても良い」と思えなくてはなりません。

 

何なら、「全部俺に任せろや」くらい言えてちょうど良いかも知れません。

 

 

 

書いている間にガイドに尋ねたい事が変化しました。

 

それは、「私に任せられるか?」です。

 

私に「任せても良い」と思うか?

 

私は、任せるに足るレベルに達しているか?

 

…という確認です。

 

これも“イエス”か“ノー”かは判別出来ません。

 

よって、「“ノー”ではない」という点を評価します。

 

 

 

これでしばらく様子を見ます。

 

“任せる”は、私がガイドに言っているつもりだったのですが、その実は私がガイドから言われている事かも知れません。

 

私は私をそこまで“信用”出来ずとも、ガイドは私を“信用”しているのかも知れません。

 

私が“信用”しているガイドに“信用”されているとするなら、「私は“信用”に足る水準に達している」と考えた方が自然です。

 

あくまで、「それを認めていないのが私」というだけです。