私の中に居る“わたし”は、感じる限りにおいて“女性”だと思います。
同じ事を何年か前にも感じ、このブログにも書いた事があります。
「愛する人を迎える為に」と、“お金が無い私”を“お金持ちの私”に何とか変えようとしていたのも、この“わたし”の為です。
「そうでなければ、私に愛する人を迎える資格は無い」と本気で思っていたわけですが、その問題は解決しました。
「愛する人の為に」という理由で、お金を求めなくても良くなったのです。
「愛する人」とは、私の中に居る“わたし”の事なので、今考えれば当然の事なのですけどね。
実際に私の中には“子供(インナーチャイルド)”が居たのですから、私の中に“女性”が居ても何の不思議もありません。
これもまた感じ方から察しますが、「性同一性障害の可能性は0」と言って良いので、その方向を模索する必要は無いでしょう。
最初、私は“わたし”との統合を考えました。
「一緒になる事を考えるなら、それ以外に無い」と思ったからです。
しかし、どうにも“統合”が出来るような感じがしません。
“統合”という言葉とその意味が、“わたし”とは合わない感じがするのです。
実際何の反応も引き起こせませんし、起こせそうな気配も有りません。
「“わたし”は統合を求めていない」と考えた方が良い気がします。
“統合”ではないなら何か?
その前に“統合”の本質を振り返らなくてはなりません。
「何の為に“統合”を求めるのか?」という事です。
それは、有り体に言えば「願望実現の為」です。
願望実現とは、「感じる対象それ自体に成る事」なのですが、それは同時に「感じる対象の消失」も意味します。
要は、「“○○な私”を消す」という事です。
“統合”すると、“○○な私”は消えます。
“統合”とは、“○○な私”と“それを感じる私”が1つに成る事ですから、結果的にそうなります。
“統合”の本質は“○○な私”の消失…となると、同じ本質を持つもう1つの考え方が見えて来ます。
“解放”です。
「私の中から居なくなる(感じられなくなる)」という結果(本質)だけを見れば、“統合”と“解放”は同じです。
しかし、過程(現象)は真逆になります。
「結果よりもどちらの過程を望んでいるか?」という点を見なくてはいけません。
では、“解放”ならどうか…?
よく分かりませんが、感動して涙腺が緩みます。
私の中の“わたし”に直接効いている感じではないのですが、身体中に波紋が広がるように何かが響きます。
少なくとも“統合”よりは可能性は大きいでしょう。
“わたし”は“解放”されたいのか?
“わたし”は私の身体から出たいのか?
段々とそう思えて来るのを感じます。
私はかつて、「性別だけが違って、他は全て同じ自分に会いたい」と望んだ事があります。
おそらく、それが私の理想とする女性像なのでしょう。
その女性像に非常に近しいものを、私は彼女に観たのでしょう。
実際、彼女を見て「あれは“わたし”だ」と思った事を覚えています。
ただ、それが「どんな“わたし”だろう?」という方向に進んだので、今回のような純然たる“わたし”からは些か逸れてしまいました。
それも今となっては必要不可欠な、望んでした寄り道だったと思います。
“解放”で一定の反応を引き出したのは確かですが、これが正解とは言えません。
まだまだ本質を追求して行く必要が有ります。
ただ、私の中から抜け出した“わたし”が、別の身体を持って女性として私の前に現れるような事があれば、それはもうとんでもない事ですね。
「二度とこの世に産まれたくない」と思っている私でも、そうなったら「この瞬間の為だけにこの世に産まれ出て良かった」と感じるに違いありません。