私は“私の悟り”を学ぶ | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

“私の悟り”の定義付けを行いたいと思います。

 

私の目的と方向性を決定する為です。

 

あくまで“私の悟り”であって、“仏教の悟り”ではありません。

 

「“仏教の悟り”を私の定義でねじ曲げる」とか、「これが“仏教の“悟り”で言われている事だ」と言うつもりは全くありません。

 

そんな事をすれば大問題です。

 

そうしますと、「仏陀は何を悟ったのか?」という問題の答えを諦めなくてはならなくなりますが、「それで良い」です。

 

「それで良い」とする理由は既に確立しています。

 

 

 

“私の悟り”とは何か?

 

それは「己を知る事」です。

 

私がずっとやり続けている事です。

 

何を以て「悟った」と判断するか?

 

それは「私が最も知りたい己を知った時」です。

 

「これ以上無いくらい、己を知り切った時」と言い換えても良いです。

 

そういう時が来たらきっと分かるでしょう。

 

「今はそうではない」という事が分かるなら、「今がそうだ」という事も分かるはずです。

 

 

 

全ての基準が「どれだけ己を知ったか?」で決まります。

 

私が外に悟った人を見るとするなら、「この人はどれだけ“悟り”について知っているか?」ではなく、「この人はどれだけこの人自身を知っているか?」で見るでしょう。

 

“仏教の悟り”に関しては仏教のぶの字すら知らなくても、己自身を良く知る人は「悟った人」です。

 

反対に、“仏教の悟り”についてはこの上無く知っていても、己の事をまるで知らないのであれば、それは「最も“悟り”から遠い人」です。

 

「結局全てが己に帰依する」という前提で“悟り”を理解しようと思うなら、多分私はこの理解の仕方で良いと思います。

 

これが「それで良い」とした理由です。

 

 

 

「そんなのは“悟り”でも何でもない」と言うのであれば、私は“悟り”を捨てます。

 

私の目的に何の役にも立たないのなら、それは捨てるべきゴミでしかありません。

 

そして、この“悟りでも何でもない何か”を採用します。

 

その時点で、それは“悟り以上のもの”になるので、常により良いものを求める私にとって二番手以下の“悟り”には用は有りません。

 

しかし、「“悟り”と言えばそれ以外に無い」としか思えないのも事実です。

 

私は“私の悟り”を学びます。

 

 

 

…で、問題なのは「これ以上学ぶ事が有るんだろうか?」という事です。

 

全く思い浮かばないのですよね。

 

強いて言うなら、「意図的に金欠にしたら何を感じ、今後どういう行動を取るか?」という事なのですが、「分かってそれをやるのも何だかなぁ」とも考えてしまいます。

 

そのうち何かやって来ると思うので、今は「“悟り”について方向性を決められただけで良し」としておこうと思います。