「そうとしか表現出来ないなぁ」と思っているのが、「“悟り”を悟る」という事です。
「仏陀は“何”を悟ったのか?」の“何”も、もしかすると“悟り”かも知れません。
今はまだまだ何も分かりません。
相変わらず「やっぱり“悟り”っぽいなぁ」と思っているだけに留まっています。
「妙に“悟り”という言葉が気になる」と言うか、「“悟り”という言葉に対する反応に惹き付けられるものが在る」と言うか、そういう感じが続いています。
全体意識、すなわち万物共通の目的ではないか?
そういう事も考え始めています。
わざわざ人に説いて回る程の価値が有るのだとすれば、「万人に通用する幸せに成る方法」くらいのものでなくてはなりません。
そういう確たる何かが無いと、「人に説いて回る」という事は出来ないと思うのです。
少なくとも、私がそうしようと思ったら、自信とかではなくて歴とした事実を必要とします。
例えば、「誰でも泥水よりは、透明な綺麗な水を飲みたいに決まっている」くらいのものでなくてはなりません。
“悟り”とは何か?
私がそれを知ろうと思ったら、「“悟り”は何を言っているか?」を突き詰める事になる可能性が高いと思います。
「“悟り“の言葉みたいなものが有って、それを知る事が“悟り”を悟るという事ではないか?」とも考えています。
仮に「(これこれこういう理由で)説いて回れ」と言っているなら、それが“悟り”になるかも知れません。
こうして記事を書いていても、反応は悪くないのです。
「明らかに間違っている(ズレている)と感じるような言葉は使っていない」と思います。
でも、合わない事は合わないのです。
そこを突き詰めないといけません。