分離する前は何だった?それが真に求めるもの | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

ちょっとある事に気付いてしまいました。

 

私がお金持ちに成る為には、“お金持ちに成った私”と“それを認識している私”とに分離しなくてはなりません。

 

悟りも同様に、“悟った私”と“それを認識している私”とに分離する必要が有ります。

 

“それを認識している私”とは、私が便宜上“観照者”と表現しているものです。

 

そして、「分離した私同士を統合する」というのが何時もの流れなのですが、「初めから分離しなければ良いのでは?」と思ったのですね。

 

何もしなければ一つだったものを、わざわざ「分離させて戻す」という事をやっているのです。

 

「だったら初めから何も(分離)しなければ良い」ですよね。

 

 

 

“悟った私”や“お金持ちの私”が居たら、私が思う悟りやお金持ちではありません。

 

本当にそうなっていたら、そういうレッテルが貼られている事は決して無いのです。

 

私が欲しいのは私に貼り付けるレッテルではなくて、本当の意味での“それ”なのです。

 

そうなると、「分離していては駄目」という事になるのです。

 

逆に言うと、“悟った私”や“お金持ちの私”が居なければ、「“それ”とは分離していない」という事なので、「私が求める真の“それ”である」と言えるはずです。

 

 

 

この理屈から言うと、「私はこのままが良い」という事になります。

 

私が真に求める悟りも、お金持ちも、既に得ている(成っている)からです。

 

無論、認識は出来ません。

 

分離していないのだから、出来るわけがありません。

 

「悟った」と言っている私も、「お金持ちだ」と言っている私も居ません。

 

それを見詰める“観照者”も居ません。

 

でも、それが真の悟りであって、真のお金持ちである。

 

未だ完全ではないのですが、私はそう思うわけです。

 

 

 

無駄かも知れませんが、「分離する前は何だったか?」という事をこれから考えてみたいと思っています。

 

「何で無駄か?」と言うと、理論上は答えなんて出るわけがないからです。

 

「分離していない状態を言葉で説明(理解)しろ」と言っても、分離して初めて用を為す言葉ではどうにもならないのです。

 

それでもやるだけはやります。

 

私が常々思っている「何もしたくない」というのは、「分離したくない」という意味なのかも知れません。