“死”とは“それ”なり | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

私は見ず知らずの人が亡くなった事を知っても、ショックも受けなければ「悲しい」とも思いません。

 

でも、私は親友の死には大きなショックを受け、生前の付き合いを思い出しては泣きじゃくりました。

 

同じ“死”でも何故こうも違うのでしょう。

 

「どうしてそうなるのか?」は分かっています。

 

私は親友に“何か”を投影させていて、「“それ”を失った」と思うから悲しいのです。

 

 

 

「死なせるには惜しい」と思ったのも、その投影した“何か”が私にとって非常に得難いものであるからこそです。

 

見ず知らずの人が亡くなっても、親友が亡くなった時ほど辛くも悲しくもないのは、見ず知らずの人には“それ”を感じないからです。

 

私が思う“死”とは、“それ”の事だと思います。

 

“それ”を感じる人が亡くなる事を、私は“死”と呼んでいるのだと思います。

 

 

 

“それ”の投影元は私です。

 

私の中に“それ”が在る…つまり、親友は出会う前から既に私の中に居て、今後も居続けます。

 

“それ”が何なのかはまだ突き止めていませんが、“それ”が分かったら必ずそういう自覚に至るでしょう。

 

「失恋は幻想だ」と言えたのも、投影先の女性は影も形も見えないのに、「もう居ない」とか「もう会えない」とは微塵も思えていないからです。

 

 

 

よって、“死”の対極概念をそのまま求めるのではなく、もう一段奥に突っ込んだ“それ”を求めるべきでしょう。

 

“それ”を失った(と思い込む)事を“死”と呼ぶのであれば、「“それ”が何なのか?」を突き止める事で、私が期待する答えに近付ける気がします。

 

“それ”自体は現段階でも私の中に在る事は確定しています。

 

そして、私の中に在るものは永遠に失われないのですから、「“死”は存在せず、親友も亡くなってはいない」という事になります。

 

 

 

“それ”が在る事が“死”の対極概念だとするなら、“それ”がそのまま“生”となります。

 

私にとっての“生”は“それ”を意味し、“それ”が決して失われないのなら、私は死ぬ事が無くなります。

 

私の定義する“死”から外れるなら、私にとってそれは“死”ではありません。