やっぱり「亡くしていない」としか思えません。
「亡くなった(死んだ)」という表現には、どうにも違和感が拭えません。
この違和感は失恋した(と思い込んでいた)時とほとんど同じです。
私は何も失っておらず、仲間も亡くなってはいない。
どうしてもそう考えた方が真実味が有ります。
失恋は本当に幻想なのですが、死も全く同じく幻想である可能性の方が高いと思います。
失恋と同じパターンで死の幻想を打ち破れるとするならば、「その人は自分にとって何であるか?」、あるいは「その人を通して感じた自分は何か?」と知れば良い事になります。
稀に「自分にとってその人の役割は何か?」というパターンも有るのですが、要は「自分とその人の間に有った本質を知る」という事です。
それを知る事が出来ればお互いに永遠に一つです。
「一つに戻る」と言っても良いでしょう。
その気になれば再生だって出来るはずです(見た目は別人だが、本質的には同じ人として)。
私達の次元には確かに死は存在します。
しかし、それはあくまで肉体の機能が停止する事を“死”と定義しているに過ぎません。
つまり、肉体の機能が停止した事を理由に「死んだという事にしている」のです。
「死んだ事にしている」のと、「死んだ」では全く意味が異なります。
「死んだ」は事実ですが、「死んだ事にしている」は建前です。
人には生死を判断する基準がそれしか無いから、“死”の概念を作ろうとするとそうする以外に無いのでしょう。
私は肉体を私だとは思っていません。
だから、「肉体の機能を失う=死」とするのは違和感が有ります。
肉体の機能を失う事を“死”と呼んでいるだけで、本当に死ぬ事って無い気がするのです。
ただ、これだけだと不十分です。
「肉体を失ったらどうなるのか?」という疑問が残ります。
「死んだ」を「肉体を失った」に言い換えただけで、死に対する答えにはなりません。
もっと追及する必要が有るでしょう。
「望めば何度でも取り替えが利きます」とかだったら良いんですけどね。