“死”について | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

「私に最後に残ったのはお金の問題」と言っていましたが、本当はもう一つ有ります。

 

それは“死”です。

 

しかし、それは「“死”の問題に向き合う時、それは私の“死”を悟った時」という想定でした。

 

「“死”とは何か?」という問題に向き合っている時には、他の問題は何の意味も持たなくなってしまいます。

 

ニュアンスとしては「生きている間で最後の」という意味だったのです。

 

 

 

今日、「もっと、この人とはずっと長く居る」と思っていた人が亡くなった事を知りました。

 

正直信じられません。

 

そうなる事など欠片も思っていなかったところに、急にその現実を突き付けられたのです。

 

私が友人と呼べる、数少ない人でした。

 

友人どころか、私の日常そのものと言っても良い人でした。

 

「出来る事なら、私が代わってあげたかった」と思う程、亡くして惜しく、悲しい人です。

 

「居て当たり前だった人がもう居ない」と思うと、今までの思い出を振り替えれば振り替える程悲しくなって、仕舞いには泣き出してしまいました。

 

 

 

そこまでは普通の反応だと思います。

 

悲しいのは事実、「代わってあげたかった」という気持ちも事実、それに流れた涙も事実です。

 

しかし、そんな私を冷静に見詰める自分が居ました。

 

その自分に意識を向けていると、「本当に亡くなったのか?亡くなっていないのではないか?」と思う自分もまた、そこに居るのです。

 

もっと言うなら「死んでいないのではないか?」という事なのですが、何故か「悲しみのあまりの現実逃避」と言うには、あまりに真実味が感じられました。

 

 

 

亡くなった友人は女性です。

 

「彼女が亡くなった」と思えば確かに悲しいです。

 

でも、「それは悲しみたいが為にそう思おうとしているだけ」という気もするのです。

 

「彼女は亡くなっていない」と思った方が、「彼女が亡くなった」と思うより、真実に近い気がするのです。

 

そこで私は思ったのです。

 

「人って本当は死なないのではないか?」と。

 

 

 

何度も確認します。

 

「悲しみから逃れる為にそう思い込もうとしているのではないか?」と。

 

いいえ、やっぱり「彼女は亡くなっていない」の方が正しいと思います。

 

それに、我が身に起こった事は全て受け入れる事しか知らない私に、「悲しみを避ける」という器用な真似は出来ません。

 

「悲しいものは悲しい、惜しいものは惜しい」と受け入れたから、「代わってあげたかった」と泣いたのです。

 

 

 

そういうわけで、お金持ちどころではなくなりました。

 

私が「己の人生の最後の学びに」と想定していた“死”について、友人がそれよりも早く機会を提供してくれた形となりました。

 

この機会を無駄にするわけにはいきません。

 

彼女も私を友人だと思ってくれているなら、私が何時までも悲しむ事を望まないでしょう。

 

彼女との付き合いは12年程で、10年前から乳癌を患っていたにも関わらず、その事を知ったのは亡くなった後、つまり一度も私にその事を言わなかったのは、私に気遣いをさせたくなかったからだと思うのです。

 

 

 

私は「彼女が亡くなった」と、本当に信じる事が出来ません。

 

「肉体の機能を失っただけで、生きてはいる」と思えてなりません。

 

本当は生きているのに、「亡くなった」と彼女が死んだ事にして悲しむ。

 

私が悲しんだのは、何だかそういう事の様に思えるのです。

 

彼女は死んではいない。

 

そう思えてなりません。