「幾ら持っているか?」の「幾ら」とは、数字の多少では無い事は感じていました。
しかし、同時に「何かしらの程度の度合いであろう」とも感じていました。
「数字ではない」という事は、「貯金額でも、総資産額でも、年収でも、持っている株の時価総額でもない」という事です。
私が引っ掛かっていたのはこの部分だったのですが、今やそれも有りません。
私がお金持ちに成る方法とは何か?
それは単純に、外的要因を全て無視して、今ここで「私はお金持ちだ」と自覚する事です。
これ以外の方法で、私は私が思うお金持ちに成る事は出来ないと思います。
考え付く限りこの上無い、この究極の方法でお金持ちに成れないのなら、私はお金持ちに成る事を断念しなくてはなりません。
この方法で合っているはずだ。
そう思っていますが、果たしてどうなるでしょう。
無一文でも「自分はお金持ち」と本当に言えるなら、それは本当のお金持ちです。
私は世の「お金持ち」と呼ばれる人に違和感を覚えていました。
その理由が分かった気がします。
きっと本当のお金持ちには、「年収が幾ら有るから」とか、「資産が有るから」という外的な理由は要らないのだと思います。
外的な理由は無く、ただ内的に「お金持ちだから」というだけでお金持ちである事が本当のお金持ち、少なくとも私が成りたいお金持ちだと思います。
「幾ら」とは、言うなれば「自覚」です。
どれだけお金持ちの自覚が有るか。
お金持ちである自覚の程度はどのくらいか。
その自覚の度合いの事を、私は「幾ら持っているのか?」と言っていたのかも知れません。
「そこに外的要因を加えないで」という条件こそ、お金持ちに成る為の必要条件だったとするならば、私は今の今までその事に気付いていなかったのです。
言い換えるなら、私は「外的要因でお金持ちに成ろうとしていて、それがそもそもの誤りだった」とするならば、ずっとお金持ちに成らなかったのは当然の事でした。
無条件で自分をお金持ち認定出来るか?
それが私に問われている事です。
外的には私をお金持ちとする根拠は何処にも有りません。
普通なら即座に「出来るわけが無い」で打ち止めです。
しかし、私はそうではありません。
「ちょっと待てよ」から、「有り得るぞ」まで来ています。
まだお金持ちには至っていません。
至るかどうかも分かりません。
それでも私は進むのです。
いや、「勝手に進んでしまっているのを感じる」のです。