“卑しい” | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

お金持ちにしろ、貧乏人にしろ、頭の中は金、金で一杯である事に変わりなく、その在り様を“卑しい”と感じていて、人をそうさせるお金もまた“卑しい”。

 

…と考えているとすれば、“貧しい”よりも“卑しい”の方が的確な表現かも知れません。

 

調べるところによれば、“卑しい”という言葉には“貧しい”という意味も含まれるらしいので、“卑しい”を採用した方が今後の進捗を期待出来そうです。

 

確かに、平均よりも経済的に恵まれているはずの政治家や会社経営者が色々やらかしているのを見ると、とても豊かであるとは言えません。

 

“卑しい”と表現するのが適切で、「平均を上回る」と言っても大した事が無いのか、少なくとも私が抱く“富”には遠く及ぶものではありません。

 

 

 

そう思うのは、「私が“卑しい”から」に他なりません。

 

目に見れる現象よりも、「私が“卑しい”と分かったところでどうするか?」の方が重要です。

 

私は直ぐに「卑しく生きるのもアリではないか?」と思いました。

 

それが元々の性分なのか、「その方が楽しそう」と思ったのです。

 

真面目さや気高さが価値に繋がらない世界なら、狡猾で卑しい方が生き易いかも知れません

 

私は今、割と本気でそう考えています。

 

 

 

私は自身に対して実直であれば、対外的には狡猾であっても構いません。

 

自身の卑しさを隠して気高く振る舞うより、卑しさをそのまま出した方が良いです。

 

私は元々人の目を気にしないので、「本当にそちらの方が良い」と判断すれば、もう躊躇はしません。

 

また、私が“卑しい”と思っているものこそが“富”の本質・源泉・それ自体である可能性も有るのです。

 

私が“富”を“卑しい”と言っているだけなのかも知れないのです。

 

“貧しい”も“卑しい”も私の性質として受け入れますが、それはそれとしてまだまだ“富”を追及して行かなくてはなりません。