“逃げている”を感じる | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

「感じているのは“今”か“逃げている”か?」で悩んだのですが、“逃げている”を先に洗い出そうと思います。

 

“逃げている”を感じているのは“今”なので、同時に“今”を感じる事にもなりましょう。

 

“心配”と同じく「何かから」というわけではなく、単に“逃げている”だけが在る様な状態にも思えます。

 

“今”は「“逃げている”を感じる」という方針で進めたいと思います。

 

 

 

逃げる事自体は何とも思いません。

 

特に外の世界の出来事に関しては、「基本的には少しでも嫌な事が有ったらそこから逃げ出して良い」と思います。

 

「基本的には」というのは勿論例外が有り、嫌な事の奥に意味や価値を感じられる事に関してはその限りではありません。

 

今ではすっかりその例外も少なくなっていて、何か有れば「逃げるが勝ち」を地で行く事でしょう。

 

前職が良い例です。

 

 

 

問題は内なる世界で逃げる事です。

 

これはどうやっても逃げ様が無い事です。

 

何故ならば、逃げるべき相手も逃げる本人も自分自身だからです。

 

宇宙の果てまで行けたとしても、時空を超えて遠い未来や過去の時代へ行けたとしても、次元の壁を超えて完全な別世界に行けたとしても、逃れる事は出来ません。

 

一度死んで生まれ変わっても付いて来たって不思議ではありません。

 

 

 

“逃げている”が心地好いものなら、私が思い描いた理想通りを感じられるなら、何も問題は有りませんでした。

 

しかし、実際は不快な事この上有りません。

 

…と言うか、落ち着けません。

 

私がイメージしたのは完全な自由と開放を感じられるものであって、“今”感じているものではありません。

 

よって、内なる世界の“逃げている”は問題になるのです。

 

 

 

解決に至るには感じ切るしか無いと思います。

 

“逃げている”は不快であるが故に問題ではありますが、拒絶も否定もしません。

 

容認して私も共に感じます。

 

早い話が「飽きるまで存分に逃げろ」という事ですね。