“自分”なんて居ない方が良いのでは? | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

この言葉をポジティブに捉える人はまず居ないと思います。

 

単純に読めばこの上無い自己否定です。

 

…が、私はとてもポジティブに捉えています。

 

「捉えている」というのは「感じている」という事なので、何をどうしたって「ポジティブだ」としか言えません。

 

私が今までやって来た事全てを覆すに等しいですが、感じているもので判断するなら「その方向に進むのが吉」と言わざるを得ません。

 

感じているものが間違っていた事は、私の解釈違いを除けばただの一度も有りません。

 

今までの事を全て忘れててでも、覆す方がより良いのなら覆しましょう。

 

 

 

仕組みとしては「“結婚”しない方が良いのでは?」とか、「“家”や“車”を持たない方が良いのでは?」という事と全く同じです。

 

それらは幸せに見えて、あるいは便利に見えて、実際は制限に他なりません。

 

その制限の最たるものが“自分”。

 

“自分”が制限そのものだった。

 

制限だったら無い方が良い。

 

よって、“自分”は居ない方が良い。

 

…という事です。

 

 

 

自分軸も要りません。

 

他人軸と何も変わらないただの制限です。

 

“軸”が要らないんですね。

 

“軸”を置いた時点で、それに縛られてしまいます。

 

動ける範囲や形がその“軸”に沿う形で限定されてしまうのです。

 

この際だから他人軸は無論、自分軸も捨てましょう。

 

 

 

「“自分”を持て」と言われる事が有るかも知れません。

 

他人軸でしか生きる術を持たない、あるいは知らない人には刺さるかも知れません。

 

しかし、両軸を充分に生きた今なら、「“自分”を捨てろ」が刺さります。

 

“自分”を捨てる時が、“自分”を手放す時が来た。

 

そう思います。