純粋な意識。
存在そのもの。
仏覚。
如来。
数日前からこれらの言葉が気になり始めています。
それらが示すのは“悟り”と呼ばれるものです。
私は“悟り”を知りませんが、「知らない」という事を知っています。
「知らない」という事を知っている。
それは、私の中に“悟り”が在る事を意味します。
本当に知らないのなら、知る事が不可能なら、知る必要が無いなら、こんな状態にはならないからです。
今から本腰を入れて“悟り”を探しに行きます。
私は今自宅に居ますが、ここから出て探しに行くわけではありません。
何処にも行かずに探しに行きます。
「これが“悟り”と言われるものだ」と分かる何かを、私の中に見付けに行くのです。