私は人の上に立てるタイプではないと思っています。
そもそも、人と関わる事を心底煩わしいと感じている為、上下以前の問題なのですが、それを抜きにしてもそういう器ではないと思います。
しかし、“出来る”の更に奥を覗こうとすると、「本当にそうなのか」を見つめ直す必要性を感じ始めました。
“出来る”とは、「人の上に立つ事が出来る」という意味である可能性を見てしまったからです。
スピリチュアル的に言うなら、「人を教え導く“メンター”になれる」という事になるかも知れません。
人の上に立つ存在、人を率いる存在、人を導く存在。
リーダーでもメンターでも良いのですが、「今感じているものはそういう存在を意味する何かだ」と考えてみます。
すると、「そんなわけはない」という思考は浮びますが、反応自体は否定的ではありません。
「方向性としては正しいと判断しても差し支えない」と思います。
事実、私自身が感じるものにのみ従い、導きを受けて今が有ります。
その結果、「世の中で言われていたあらゆる事よりも正しかったし、これからも正しい」と思うに至りました。
これは何があっても覆らないし、また覆せないと思います。
その覆らざるものが「お前は人の上に立ち得る」と言うのなら、きっとそうなのです。
私は「分かれば良い」というスタンスです。
「分かっている事をわざわざやる意味はない」と考えているからです。
よって、私が人の上に立ち得る存在だったとしても、「そうだ」と分かったなら今まで通り独りで居る事を選ぶでしょう。
「私は何者なのか」を知る事が、それ即ちこの上無い自己承認と自己顕示なのです。
それらが満たされてしまったら、人の上に立つ事は面倒を増やすだけの骨折り損にしかなりません。