最近の流れを振り返りますと、金→徳→人望と来ていますから、「人間とは何か?」という問いに行き着くのは自然な事でしょう。
解脱のげの字も何処かへ行ってしまっている今、この問いに対する答えを見付けるより他に道は無いでしょう。
まず「この問いが意味するのは何か?」を考えます。
それは先日も述べた通り接し方、もっとストレートに言うと用途を示すものだと思います。
例えば「豚とは何か?」という問いがあるとすれば、「食料だ」が答えになります。
「私にとって豚とは食べる為の存在(食べるのが正しい用途)である」という事になります。
これと全く同じ理屈を人間にも適用させます。
酷く人間味の無い、何処か機械的な考え方をしなくてはなりませんが、私の今までの経験から見るとこの姿勢で正解だと思います。
一時的にでも人間を辞めないと、あるいは人間の次元を超えないと、人間の枠を超えた先にあるものを見る事が出来ません。
「人間とは何か?」という問いに、人間が答える事は出来ないのです。
どうしても人間ではないものの視点が必要になります。
…と言うか、私は既に自身を「人間だ」とは思っていないのですが…。
その答えは私の中で用意されつつあるのでしょう。
「人間とは何か?」という問いが在る事がその根拠です。
答えが無い事、そもそも答えを出し様が無い事には問いは生まれません。
仮にその答えを知った時、それが人間にとって非常に都合が悪い事だとしたら、例えば豚が人語を解すとしたら、私は豚に対してどう接するでしょうか?
「豚を豚小屋から解放するか?」と言うと、しません。
「遠からず殺されて人間の食料になるという事実を教えるか?」と言うと、教えません。
何故ならば、それが私にとっての豚だからです。
可哀想と思うなら豚肉を食べる事を止めますが、他の人が豚肉を食べる事を止めませんし、止める様に訴える事もしません。
私がそれについて答えを知る事さえ出来れば、「それがどうなるか?」は私の関知するところではないのです。
人間も同様に、「救う」とか「助ける」という選択は採らないでしょう。
それは私の精神性が極限まで高まっても変わらないと思います。
本当に人間を救いたいと思ったら、「そもそも新たに人間を誕生させなければ良い」と考え、「自身の子を誕生させない」という手段しか採り様が無いですね。