まだ言語化に至りませんが、「“低賃金は”結構良いものらしい」という事が感じ取れます。
「“低賃金”で良い」なんて普通は考えもしない事だと思いますが、感じるもので判断するならそう評する他ありません。
ただ、どういう訳かやはり「私は“低賃金”である」は正しくないようです。
「私は“低賃金”ではない」か、単に“低賃金”なら何の問題も有りません。
どういう理屈でそうなっているのか、非常に不思議なところであります。
おそらく、“低賃金”でないと学べない事や知り得ない事が有るのでしょう。
そういう意味なら「私は“低賃金”ではないが、“低賃金”で良い」という事が理解出来ますし、「上手く行っている(願いは叶っている最中)」と言えるでしょう。
何を学べば良いのでしょうか?
“低賃金”を通さないと、見付けられない自分とは何でしょうか?
心身共に、日毎に調子が戻っているのを感じます。
これで間違っている方向に進んでいるとは思えないので、明日は今日よりも理解が進むかも知れません。
やはり、「外の世界に向けて本当に発信したい事が有る」と思います。
ずっと前から「中途半端な状態で人前に出るべきではない」という意識も有ります。
その為には知るべき事は全て知り尽くす必要が有るのでしょう。
例えば、私はヒーラーではないと思うのですが、仮にヒーラーに成るとしたら私自身が完全に癒された状態でなくてはなりません。
ヒーラーは“癒し”ですよね。
だから、“癒し”そのものとして在る事が必要だと思います。
存在の性質が“癒し”である事が、私が思うヒーラーの必須条件なわけです。
本当に言いたい事を言う為に必須な性質を養う、あるいは発見する為に、私は内的課題に取り組み続けていると思うのです。
それが“低賃金”に見た居場所かも知れませんし、仕事かも知れません。