私は何であれば、“何もしない”のか? | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

今感じているものは、“何もしない”とは言っていないように思います。

 

より本質的な何かに形を変えつつあるのでしょうか。

 

今までもそうだったので今回も例外では無いと思いますが、最後は単語の形に行き着くはずです。

 

「私は“○○”である」という形ですね。

 

その“○○”を悟った時、「ああ、それなら何もしないのは当然だよね」と得心に至るのです。

 

「私は“何もしない”である」では、全然答えにならない事が分かります。

 

それでは“何もしない”を真に実現出来ません。

 

“何もしない”を実現させるには、「私が何であれば良いのか?」という問題を解く必要があるのです。

 

 

 

“神”ではありません。

 

少なくとも私が見出だした“神”では、何もしない事の理由にならないのです。

 

“愛”も“仏”も“悟り”も違うようです。

 

私が知っていて、知れば「ああ、それだ」と分かる言葉だと思います。

 

それを今、言葉無き言葉として感じているかも知れないのです。

 

その言葉が浮かんで来るまでには、もうしばらく時間を要するでしょう。

 

 

 

“何もしない”とは、「意識的には」という事です。

 

呼吸が良い例ですね。

 

呼吸は「している」と言えば「している」と言えますが、正確には「している」とは言いませんね。

 

何と言えば良いのでしょうか。

 

「起こるに任せる」とか、「流れに委ねる」とか、「今後もそうなる事が分かっている」とか、私が言う“何もしない”とはそういう事なのです。

 

ただ、それだと答えとして完璧ではないのです。

 

 

 

“愛”を例にすれば、私は愛そうとしなくても良いし、愛されようとしなくても良い事を知っています。

 

それは「私が“愛”であるから」ですね。

 

これは“愛”のみに限れば完璧な答えです。

 

“何もしない”はさらに範囲が広く、もっと言えば万事に共通し得るものです。

 

それを一つの単語で表そうと言うのが今回の試みなのです。