“疑い”を感じる | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

今、“疑い”としか言いようがないものを感じています。

 

何度確かめても“疑い”以外の言葉は当て嵌まりません。

 

天気で例えるなら完全に“曇り”で、実際に心も雲っているのが感じられます。

 

何を疑っているのでしょうか?

 

その答えを“疑い”の中から発見しなくてはなりません。

 

“疑い”の中に居ては“救い”も“利他”も叶わない事でしょう。

 

 

 

“疑”を持ちながら“信”を得る事は出来ません。

 

また、“疑”を知らずして“信”を知る事も出来ません。

 

今感じている疑いの心は、信じる心それ自体です。

 

私は“疑い”を否定も拒絶もしません。

 

私の中に在るものは全て、肯定と受け入れの対象です。

 

その為に“疑い”を感じて理解に努めます。

 

 

 

今日明日はこの“疑い”が課題になるでしょう。

 

最近の流れから見て、“疑情”と呼ばれるものかも知れません。

 

もしそうなら、“信心”を獲得するチャンスです。

 

“信心”を得て本当の意味で“阿弥陀如来”の他力に委ねる事が出来たなら、“仏心”も“救い”も“利他”も真の意味で理解に至るかも知れません。