思えば私の「愛したい」は執着であり、愛される役回りである自身の否定だったのでしょう。
言わば私の愛され拒否の形が「愛したい」だったのです。
前ほど強くは感じませんが、今でもそれを認めるのは癪ですね。
愛したくて堪らないのに、それを「お前は愛される側だから」と言われれば「それは嫌だ」と思います。
今までで一番受け入れ難い事かも知れません。
痛い勘違いである方が、「お前は愛されない役回りだから」と言われる方がどれだけ受け入れ易い事でしょう。
嫌われている方が、憎まれている方が心情的にまだ落ち着きます。
それもまた愛されたくないが為の隠れ蓑に過ぎない事が自分でも分かってしまうので、誤魔化す事も逃げる事も出来ないのが辛いところです。
そういう感情を含めて味わう事が今の私がすべき事なのでしょうか。
話は急に変わりますが、「ちょっとやってみよう」と思う事があります。
現在はコメントを受け付けていないのですが、これを受け付ける設定にします。
そこに「私は○○で××なのですが、私はどんな自分を感じているのでしょうか?」みたいなコメントが来るのを待ちます。
私がその文脈から感じられる事や物理的状況から「今のあなたは●●ですね」と指摘します。
この指摘が見事に図星を突いた場合、「あなたはそれと向き合う事が出来ますか?」と問います。
「向き合った結果がどうなるかを経験してもらおう」というわけですね。
言い換えれば「私のスピリチュアルを他の人にも経験してもらおう」と思うのです。
現時点で「こという形にしよう」というプランがあります。
何日か経過してもこの気持ちが消えないようなら、実際にやってみます。