対象から見た私を、私が感じられるのか? | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

痛みはほとんど感じられない程に小さくなりましたが、完璧な答え(悟り)を得たわけではない事は意識の状態から明らかです。

痛みが何を意味していたのかを知りたいので、このまま消えて欲しくはないのが本当のところです。

先日色々調べて回ったとは言え、「これだ」と感じるものに出会ったわけでもありません。

しかし、明らかに痛みが小さくなっている事から、何処かで痛みが示す答えに繋がるものを拾っているのかも知れません。

そこで思い返すと、少し気になる解釈をされているブログに出会っていました。



無断でそのまま内容を転載するわけにはいかないので概要だけを記します。

大きく分類して「その場から逃げるべき」というものと、「私に好意的な意識を向けている人が近くに居る」というものです。

気になったのは後者なのですが、これは「客体としての私はどうなのか?」という事を示しているのだとすれば、最近の流れとも符合する部分が見えて来るのです。

「私の“本体”は何なのか?」とか、「それを受け取ります」とか、その辺りの記事の内容と何となく繋がるように思えます。

ただ、これは「私が対象をどう見ている(感じている)のか?」が主軸だった、今までの私のスピリチュアルとは真逆の方向になります。

「対象は私をどう見ている(感じている)のか?」という事になるのです。

私の中にはこれを理解する回路が通じていません。

私が感じている事を私が理解出来るのは当然なのですが、「対象が感じている事を私が理解する」という事は理解出来ないのです。

しかし、私はこれを否定出来ないのです。

その根拠は私は中に在るのですが、私の中の何もその考えを否定していません。

「可能かどうか分からないが、その方向で物事を進めてみても良い」と思わされます。



痛みも形を変えています。

この形が何を意味するのか分かりません。

正しい方向へ進もうとしているのか、誤った方向へ進もうとしているのか、それも区別出来ません。

「今までとは真逆の物の見方をしよう」と言うのだから、それは当然の事かも知れません。

課題は記事タイトルの通りですが、おそらくこの場合も「感じているものは私である(私のものとなる)」という事実は適用されると思います。

違うのは「私の視点か、対象の視点か」という事だけで、両方の本質である意識からするとどっちでも同じ事なのかも知れません。