私の“本体”は何? | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

今回の記事で言う“本体”とは、「人から見た私の事を指す」と定義します。

今までのようなスピリチュアル的な、魂とかエネルギーとか意識というものではありません。

「人は私の何を見ているのか?」という事を通して、現実世界における私の本体を探る試みをしたいと思っています。



物凄く分かりやすい本体としてお金を設定しましょう。

私がお金を持っている事が人に知られたら、私がどういう扱いをされるのかも、その人が何を見ているのかも分かります。

まず間違いなく女性にモテるだろうし、男性ならへりくだるでしょう。

その時「私がモテているわけではなく、本当にモテているのはお金であり、男性がへりくだるのもお金に対してへりくだっている」という事を、私自身が最も理解しているでしょう。

私は「人は私を見ているのではなく、お金を見ているのだ」という事を当然の事として理解し、受け入れているでしょう。

そこには愛も情も期待しておらず、「私にお金が無くなったら去られて当然であり、そうでない方が却っておかしい」と思っている事でしょう。

それは、その時の私が「私の本体はお金である」という事を知っているからです。



今、私は「そのような意味での本体を持ってみても悪くないのではないか?」と思っています。

本体とは言っても実質的にはダミーですね。

私も「ああ、この人は私の○○(ダミーの私)を見ているんだな」と分かっている方が色々と都合が良い気がします。

「ダミーを欲しがっているとするなら、それはどんなダミーが良いか?」という事ですね。

もしかすると、欲しがるまでもなくそのダミーを既に持っているかも知れません。

私も確かにそれは知りたい事です。