“繋がっている”を感じる | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

昨夜は寝る前に微かに「一緒に暮らす」という声が聞こえていました。

そして今朝、目覚めの直後には「会うのが楽しみな人が居るだけで生きられる」という声が聞こえました。

私は「全くその通りだ」と思うと同時に、「私の中からそういう声が出て来るのは喜ばしい事だ」とも思いました。

会いたくない自分、一緒に居たくない自分をやめる事が出来つつあるのかも知れない。

私はそうは思えなかったが、今まで出会った人の中には、もしかすると私に会う事を楽しみにしてくれていた人や、「一緒に居たい」と思ってくれた人が居たかも知れない。

私は自身が思う程会いたくない存在、一緒に居たくない存在ではないのかも知れない。

今はそんな事を思うに至っています。

しかし、感じるものは未だ途切れておりません。

潜在意識と繋がっているのなら潜在意識と顕在意識が完全に一致するまで。

誰かと繋がっているならその人と一緒になる(結婚する。暮らすようになる)まで。

何処かと繋がっているならその場所で成すべき事を成すまで。

とにかく繋がっているものに現象が追い付くまで、まだまだ終わらないと思います。



現状では「感じているものが何か?」を判断しているのが顕在意識である以上、それが正確である保証はありません。

常に「そうかも知れないし、違うかも知れない」という曖昧な状態で事に挑まなくてはなりません。

可能性が半々ならかなり高い方で、大体は顕在意識的にはかなり分の悪い賭けとなり続けるでしょう。

つまり、「無駄骨になる可能性の方がずっと高いと解っていながら、それでも歩み続けなくてはならない」という事です。

好意的に見れば「あらゆる可能性を受け入れている」とも言えますし、「固定観念に縛られていない」とも言えますが、それもまた顕在意識の解釈に過ぎないのでそこに大した意味はありません。

それを承知の上で、今の私が感じているものに対して思っているのは「これは“繋がっている”を感じているのではないか?」という事です。

「誰と」や、「何と」を抜きにして、ただ“繋がっている”だけが在る…と。

…となれば、私がすべき事は顕在意識での「繋がっている」という解釈と、感じているものの擦り合わせです。

それを感じながら、「繋がっている。繋がっている」と繰り返す。

そこに違和感が無いか?

それは違う事を言っているのではないか?

無理矢理顕在意識の都合に合わせようとしていないか?

そういう事に気を付けながら、感じているものに顕在意識を合わせて行くような感じで、「明らかに違う事を言い出している(感じているものが形を変えた)」と解るまで続ける。

そうやって前に進むしか、今の私に出来る事はありません。