汝それなり | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

“汝”とは、私の視点なら私の事です。

“それ”とは私が「こうだ」と考えたもの、思ったもの、感じたもの、気付いたもの、宣言したものです。

“なり”とは、「である」という事です。

“裕福”は“それ”にあたるので、「汝裕福なり」となり、私視点に置き換えると「私は裕福である」という事になります。

理屈だけでは意味が無いのですが、私はその意味を持っています。

故に、この理屈が私の中で事実として通用するのです。

その事実は私のマインドや現実にも実際に影響しているし、これからもするでしょう。



昨日の“裕福”は初期の考えの段階ですが、今の時点で最終的には「私は“裕福”である」という結論に至るしかありません。

そう遠くない内に「私は“裕福”そのものだ」と宣言する時が来るでしょう。

私の中に“裕福”が無いのなら、“裕福”という言葉もそれに付随するイメージも出て来ません。

私の内で“裕福”であるかどうか定まっていなくても、「私は“裕福”だ」と言ってしまっても問題無いのです。

だから、私は「もはやお金持ち(裕福)になるしかない」と題した記事を書いたのです。



“裕福”とは実に良い言葉です。

同意語のように用いられるのかも知れませんが、“お金持ち”と“裕福”は正反対と言って良いくらい違います。

これ程違うと「“裕福”ではない人程お金持ちになりたがり、お金持ち程“裕福”ではない人は居ないのではないか」とさえ思います。



余裕と幸福を失う原因は、求める事それ自体にあります。

求めるから余裕を失い、不幸になるのです。

求めない限り、余裕と幸福は失いません。

求めない振りをするのではなく、求める心があるのにそれを見てみぬ振りをしているのではなく、求める心が一切存在せずに、心の底から求めない事を喜べれるのならば、余裕と幸福はどうやっても失えない事でしょう。

私は今や求める事に意味を失って、求めない事に意味を感じています。

「求めない事くらい楽な事は無い」という事を味わってしまったからです。



求めないので誰からも邪魔をされません。

自分の取り分を奪われる可能性が減るので、求める者からは歓迎されます。

求めない者同士ではそもそも競争しようもありません。

私はそんな「求めない」という平坦な道をマイペースで気楽に歩み続けるだけです。