愛している人の幸せを願うのではなく信じる | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

私はIさんの幸せを願う気持ちはほとんどありません。

いや、全く無い。

Iさんは幸せになる人だと思っているからです。

その根拠は、「自分が見初めた人だから」です。

それは、「自分の眼鏡にかなった者が不幸なわけが無い」という、私自身の見る目に対する自信でもあります。

不幸な人に、不幸になる人に、私が心から惹かれるはずも無いのです。

だから、私はIさんの幸せを祈りません。

「愛しているならば、その人の幸せを願う」というのは、私には当て嵌まらないのです。

「愛しているならば、その人の幸せを信じる」というのが、私の愛する者への意識の在り方です。

信じるというよりも、単なる事実ですね。



その人にとって何が幸せか、どうなる事が幸せかなどは、私の知る所ではありません。

それはその人自身が見付け、成せば良い事です。

Iさんにはきっと、その力があるでしょう。

偽なくそう思っているのなら、私自身にもその力があるでしょう。

私が私に対して持っている自信は、「女性に関する願いなら、ありのままの自分で何でも叶うだろう」というものです。

これが私の幸せ、そして幸せになる力なのだと思っています。



私の中にはまだ重たい何かが、知られていない何かが在るのを感じています。

これのお陰で外界で何が起ころうがそれに対して神経を削がれる事も無く、何処に出ずとも退屈を感ずる事もありません。

改めて思うのは、「愛されるより愛した方が良い」という事です。

1度この味を知ったら、誰でもそうなるんじゃないかと思います。

これ以上に素晴らしい事があるとすれば、やはりその愛した対象に愛され、尚且つ一緒に過ごす事でしょうか。