他人の愛ではなく、自分の愛を | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

順を追って書きたいと思います。

まず、とてつもない苦しさをひたすら感じ続けていると、「単に気持ちを消化したいだけじゃないの?」という声が浮かびました。

私はそれまで「一体どうしたらこの苦しみを理解出来るのか?」と「理解する事」を頑張っていたのですが、その声を聞いた途端に一気に苦しみが引きました。

一時の解放気分を喜びましたが、「これで終わりではない」という事を感じました。



程無くして、「人の愛を真似る必要は無い。自分の愛を見出だそう」と思い立ちました。

取り合えずあの苦しみについては、「自分の愛を曲げて他人の愛を取り込もうとしたからだ」と考える事にしました。

自分の愛とは何か?

そこを突き詰めると“性”が浮かびました。



他人の愛は教えられた愛です。

常識や概念や観念と何も違いありません。

「そのどれもが自分には当てはまらなかった」と、私の経験が物語っています。

愛も同じでしょう。

私には私なりの愛し方がある。

「貴方は愛する事を強いられていない」とする教えが意味するのは、「貴方は他人の愛に従わなくても良い」という事なのではないでしょうか。



そうであれば、私の「愛を知らない」という言の意味も全く変わって来るでしょう。

「他人の(押し付けられた)愛は知った事ではない」という意味になります。

自分の愛なら知っているはずだ。

…という観点で今一度愛を見詰めます。



私が知りたいのは女性の愛し方です。

もうやっているはずなんですよね。

つまり、「もう愛しているはず」なのです。

他人から教わった愛とかけ離れ過ぎて、それを愛だと思っていない事なのでしょう。



これで私は愛している可能性は高まりました。

後は具体的な形を見出だすだけです。

「それが無ければ生きている意味が無いもの」が愛ならば、私は既にその意味を手にしているのかも知れません。

その愛を以てIさんを見た(感じた)時、私の中で何が起こるでしょうか?