私とBさんは一体 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

何が違うのか。

その答えは早くも得ました。

彼女を見た時に起こる反応は、右腕を見た時に“私”と“私の右腕”に分離する様に、彼女との分離を示しているのです。

「彼女に出会って愛を知ったはずなのに、愛の対象が彼女ではない気がする」と感じたのも、そもそも愛はワンネスの概念であって分離の概念ではないからでしょう。

「彼女を愛したい(彼女に愛されたい)」は違うのです。

「私と彼女は愛(一体)である」とする方がまだ近いでしょう。

私と彼女が一体だから、私の求めた通りに彼女に出会えたのです。



言うまでもなく、愛は彼女だけではありません。

私の世界それ自体が愛です。

従って、私が私の世界から分離しない限り、私は世界や彼女と常に一体のままで居られます。

いや、いくら私一人が分離を試みようとも、私は世界や彼女と一体であるという事実は変わりません。

どう足掻いても一体でいるしかないのです。



個の問題として、「私とBさんがカップルになる事が出来るのか?」を取り上げてみます。

身体に例えると「右腕と左腕を組めるのか?」という事ですが、結論から言うと「なり得るが、それは世界の都合次第」という事になりますね。

私の世界的にその必要が生じたならなる。

そうでないならならない。

どちらにしても、私に出来る事は「私の世界の都合に合わせる事」「世界と一体のままでいる事」です。

「世界になる事」でも良い。

この先のシナリオに「私とBさんがカップルになる」というシーンが用意されていれば、分離を止めている時間が短ければ短い程、それは早くやって来るでしょう。



個の視点で「彼女と一緒になりたい」と思っている限り、それは却って遠退きます。

そう思っている時点で対象とも世界とも分離しているからです。

私は私の世界を愛します。

「世界を愛する」という事は、「その世界の中で分離(抵抗)を止める」という事です。

あなたも私も、各々の世界において初めから愛されています。

愛とは特別なものでも求めなければ得られないものでもありません。

世界との分離が愛を特別なものにし、求めなければ得られないものにしていただけです。