“好き”が私を見ている | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

Bさんは私の中の“好き”が服を着て歩いているような存在です。

Bさんから視線を向けられる事は、“好き”から見られている事でもあるのでしょう。

これはどういう事なのでしょうか?



もしBさんも私を好きだったら、何から何まで辻褄が合います。

私が“好き”なBさんが、私を“好き”という視線を向けている。

“好き”から見られていますよね。

そして、お互いの視線を通して、お互いの中に在る“好き”を見合っている。

これが事実なら、私は気絶する程喜ぶ事でしょう。

喜びが過ぎてその場で固まり、喜ぶどころではないかも知れません。

放心状態で自分の部屋に戻り、布団の上でゆっくりとその実感を味わい、「信じられない」と呟いているかも知れません。

実際どうなんでしょう?



「見たい。見られたい」という欲求が常に有って、それが女性に関する事である事は解っていました。

見たかったのは“好き”、見られたかったのも“好き”なのでしょうか?

容姿ではなくて、“好き”という気持ちそれ自体を見たかったし、見られたかったのかも知れません。

だとすれば、私は見ているし、見られてもいたのですけど。