切なさの向こう側 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

Aさんにしろ、Bさんにしろ、私が見ているのは外見のみです。

普段関わる事が無いのでそれしか判断材料が無いからですが、ここに問題が有る様に思います。

何が問題かと言いますと、私の中で「外見はそれほど意味が無い」とする自分と、「外見に強く惹かれてしまう」という自分が同居している事です。

今のままだと、どっちの自分に従っても片方の自分の反発を受けてしまい、所謂「ブレーキとアクセルを同時に踏む」という状態になります。

なので、これを統一したいと思います。



外見に強く惹かれる自分に従う場合、「私は外見がタイプかどうかで女性を選ぶ」と心の底から決断する(決断が起こる)必要が有ります。

まずこちらから自分の気持ちに正直になってみようと思います。

もしBさんに、「私の何処が良いの?」と問われても、何の抵抗も無い素直な気持ちで「貴女の外見がタイプだから」と言えるかどうかです。

言い換えると、「この人は外見で女性を選ぶような人なのか」と思われても「当然」と平気で居られるかどうかですね。

「それによって、外見がタイプの女性に嫌われる勇気を持てるか否か」とも言えますね。

本当の気持ちがそうであれば、勇気もへったくれも無くその気持ちに従い、私は堂々と女性を外見で選びます。

外見と言うより、「タイプ(と感じる)かどうか」ですね。



…と、そこまでは今日の朝に書いたものですが、今はとても軽やかな気分で居ます。

「女性を外見で選んでも良い(外見で選ばれても良い)し、タイプじゃない女性は振って良い(自分がタイプでないのなら振られても良い)のだ」という赦しが起こったのかも知れません。

「振られても良い」と言うのは、「タイプじゃないならそうだよな」と当然の如く受け入れたという事です。

「そうするのが当たり前で、言葉に出す程の事ではない」という事です。

これが切なさの向こう側なのでしょうか。