TVでは稼いでいそうな人に年収を尋ねるシーンが良く有りますけど、本来ならあれも尋ねる意味の無い質問だと思うのですよ。
それを敢えて尋ねるからには、年収を知る以外の意図が有るのです。
TVだと「凄い(あるいは極端に酷い)」と思ってもらった方が盛り上がりを期待出来ますし、盛り上がりを期待出来るという事は視聴率にも期待出来るという事です。
TVの中における「年収は幾ら?」は、実際は「視聴率が欲しい」という事であって、その人の年収が幾らだろうが関係無いのですよ。
もし、年収を尋ねると視聴率が下がるなら、絶対に年収を尋ねる様な場面は放送しないでしょう。
視聴率が期待出来るからこそ、本来なら意味が無い事にも意味が生まれるのです。
そこまではTVの話です。
今度は個人の話です。
個人の「年収幾ら?」は、どんな時にそう尋ねたくなるのでしょう。
私なら「自分の収入を恥じている時」ですね。
「収入が低いのは恥だ」という思い込みが正しい(もしくは間違っている)事を確認したい時、「年収は幾ら?」と尋ねたくなります。
もう少し内面的に進歩していれば、そんな思い込みが有る事を理解する為、そして解体する為に尋ねたくなるでしょう。
正直言いますと、私は自身の収入を恥じています。
恥じていますが、上げようとは思いません。
恥じたまま上げても意味が無いし、単純にその能力も無いし、さらにその能力を身に付けるつもりも有りません。
私がやるべき事は、収入を恥じるのを止める事です。
それでこの話は解決に至ります。
「流石にこれ以上下がると対策を講じる必要が有る」というボーダーは有りますが、そのボーダーを上回っている限りはそれ以上の収入を求める事はしないでしょう。
何でこんな話をするかって?
「人に尋ねたい事は、自分の中の思い込みを示している。それはあらゆる物事に通じる。それを知れ」と(自分に)言いたいだけです。