Xの正体とは、所謂「好みタイプ」 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

誰しも「恋人にしたいのはこのタイプ」という型を自分の中に持っていると思います。

私はそれを手放します。

「それこそが煩悩性であって、この型が有る限り自分が本当に求める人を知る事は出来ないし、側に居ても気付く事が出来ない」と思うからです。



非煩悩性によって選ぶとしたら、一体何を見て選ぶのか。

その1つに「その人の普段の行い」が有ります。

「普段の行い」を見る為には、物理的距離の近さと相応の時間が必要となります。

行いは純然たる事実で、最も信頼出来る根拠です。

「自分はそれを見て、女性を選ぶ事にする」と決めました。

従って、私の方も行いで示さねばなりません。

「自分の行いを見て、貴女の眼鏡に叶うかどうかを見て欲しい」という要求を、言葉を介さずに行いで伝えるのです。

解る人なら解ってくれるでしょう。

そして、そんな人こそ私に相応しい人です。



「好みのタイプ」という型が無くなると、「好みのタイプの異性にとって、自分はタイプではなかったらどうしよう」という、恋愛で最も有りそうなお悩みパターンから解放されます。

また、「好みのタイプじゃない異性に好かれたらどうしよう」という心配(?)も有りません。

恋愛に臆病にならなくても良くなります。

…が、「好みのタイプ」が恋愛の楽しさ(刺激的な意味で)に一役どころか十役買っているので、それを手放せば楽しさの質が変化する事は間違いありません。

新たな楽しさは、信頼という穏やかなものとなるでしょう。



行いが素晴らしいと思える女性、身近に居ただろうか?