私は「何の為に働き、生き続けるのか。このまま死ぬまで我慢して待てば良いのか。そんな人生に何の意味があるのか」と自分に問い、答えを求め続けて今に至る。
それほど私の人生は退屈で、堪え難いものであった。
私はただ、この退屈で無意味な人生から解放されたかっただけだ。
本当に、それだけだ。
私は知っていた。
人生が退屈で無意味なのではなく、その問いを持ち続けている事が退屈で無意味なのだと。
だが、私はどうすればその問いを手放す事が出来るのかを解っていなかった。
数年に及ぶ試行錯誤の末、行き着いたのが「感じ切る事」だ。
「納得出来る理由を見付ける事」でも、「今に在る事」でも無かった。
それらは、感じ切った末に起こるものだったのだ。
一生掛けて味わう予定だった退屈と無意味感を、出来る限り短い期間に凝縮して感じ切る事はなかなかにハードである。
そして、タイミングもある。
幾ら「早く感じ切ってしまいたい」と思っても、芯からその気になった時でないと、感じる事が出来ない。
せっかちで焦らされるのが好きではない私には、この点も厄介だった。
欲しがっていたものを、「実は要らなかった」と認めるのは案外勇気が要る。
「女性かお金、必ずどちらかが最後まで残る」と確信していたが、最後に残ったのはお金だ。
「女性は要らない」と感じる(認める)事は出来る。
しかし、「お金は要らない」と感じる(認める)事はまだ憚られる。
私にとってお金は、それ程に根が深い。
「女性もお金も要らない」と言うのは非常に語弊のある表現だが、「要るとか要らないとか、そんな事を意識さえしていない状態」と捉えて欲しい。
感覚的に例えれば、
「酸素は要らない」
…これを感じて欲しい。
何となく解ると思う。
それが私が女性やお金に心の底で感じているものだ。
さて、お風呂に入って来るとしよう。