給料で自分の何を計っているか | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

「給料で自分の何かを計っている」という線は外れていないだろうと思う。

「お金が欲しい」のではなく、「給料が欲しい」のだ。

そして、給料は「生活の為に欲しい」のではなく、「自分を感じる為に欲しい」のである。

どんな自分を感じたいのだろうか。

私の頭には、「この程度の給料なら、この程度の働きが相応だ」とか、「もっと働かせるなら、もっと給料を貰えないと駄目だ」…みたいな考えがある。

自分の中に、貰える給料と自分の働き具合(総合的な労働負荷)のバランスを計る基準みたいなものがあるのだ。

働き具合>給料だと「割に合わない」と感じるし、場合によっては「居て貰えるだけ有り難いと思え」と非常に傲慢な考えにもなる。

給料>働き具合だと初めこそ「こんなに貰えるのか」と感じるが、それも長くは続かない。

それが当たり前になって来れば、働き具合>給料の時と同じ様に、「もっと寄越せ」的な考え方になる。

何処まで言ってもキリが無く、恒久的な満足に行き着かないなら、それは求めているものを間違えているのだ。

従って、「給料が幾ら貰えているか、それ自体」はさほど関係無いだろう。

物理的に生活に困窮を強いられる状況ではない限り、幾ら貰えているかはさしたる問題ではない事は明らかだ。

頭では「もっと給料を寄越せ」と言ってはいても、実際にはそれほど欲しがってはいない事を感じている。

給料に対する不満(満足)は、「自分が如何に○○であるかを知って欲しい」という欲求の顕れである。

それは他人に訴えている様で、自分に訴えている。

自分に対する訴えを聞き届ける唯一の手段は感じる事だ。

給料が少なければ不満、多ければ満足という事にそのヒントがある。

満足を得られるという事は、「自分が感じているものを否定している」という事だ。

まず「?」となると思うので、ここでポジティブになる原理を説明しよう。



自分が認めたくないものを否定、あるいは排除出来るかも知れないと思った時、人はポジティブになる。



これが巷のスピリチュアルでハマる大きな落とし穴となり得る。

「ポジティブを見なさい」的な教えがあるが、これを単純に解釈すると、目の前にぶら下げられた決して食べる事の出来ない人参となる。

まずは、人参にポジティブを感じる事自体に疑問を持たねばならない。

人参が当たり前に食べられる物ならば、目の前に人参をぶら下げられたところで、その度にポジティブになどならないという事に気付かねばならない。



人参を見てポジティブになる。



それはつまり、“人参を自由に食べる事が出来ない私”を感じているという事だ。

“そんな私”を感じる事が、目の前にぶら下げられた人参を食べる行為である。

目の前にぶら下がって見える人参は影で、その投影元は今自身が感じている事そのものである。



人参は、今感じている“それ”なのだ。



自分の中の否定したいネガティブなものが、外にはポジティブに見える影となって顕れる。

影を追っても人参は食べられない。

これが仕組みだ。

私にとって、私以外の存在は投影された影である。

貴方は、私にとっては「決して食べる事の出来ない人参」なのである。

そんな貴方に対して仕組みについて語る事自体は意味は無いわけだが、“知っている凄い私”という人参を食べたかった(感じたかった)という事であろう。

それは即ち、“何も知らない凄くもない私”を感じているという事に他ならない。

この場合、“私は何も知らない凄くもない私”という人参を食べる(感じる)事によって、“知っている凄い私”という人参の影を消すのである。